DT-1 開発ストーリー
展示コレクションの関連情報
開発ストーリー
ルーツは国産初の本格派モトクロッサー
DT-1がデビューする1968年(昭和43年)まで、国内におけるオフロードバイクの概念は、単に「ロードスポーツ車をベースとした改造車両」でしかなかった。そもそも1950年代まで、富士登山レースや浅間火山レースなど国内の主要レースのほとんどは未舗装の一般公道を閉鎖したコースで行われており、オンロードとオフロードを区別する意識が希薄だったといえる。
それでも、しだいにアメリカ流のスクランブルレースが人気を集め、1959年4月には全日本モーターサイクルクラブ連盟(MCFAJ)が初めて全日本モトクロス競技会を開催。続いて1960年代に入ると、日本モーターサイクルスポーツ協会(MFJ)もモトクロス日本GPを主催するなどオフロード熱は一気に高まっていった。
とはいえ、そのスターティンググリッドに並んでいたのは、市販ロードスポーツにサイドアップマフラーを付けた改造マシン。ヤマハ発動機もその流れに乗り、一般向けにYG-1やYA-6、YDS-2用のスクランブラーキットを販売する一方、1963年からはファクトリーチームを結成して全日本モトクロスなどに送り込んだが、オフロード専用と呼べるマシンはまだ手にしてはいなかった。ロードレース世界GPで鍛えた2ストロークエンジンの強力なパワーがあれば、特別なことをしなくても十分勝つことができたからである。
ところが海外では、ハスクバーナやブルタコなどがすでにオフロード専用マシンを開発・販売しており、国内でもスズキ、カワサキがそれに追従。スリムな車体に単気筒エンジンを搭載するモトクロッサーでレースを席捲しはじめた。
そこでヤマハ発動機も、1967年5月、密かに開発していた単気筒・250ccモトクロッサーYX26を、福島県・郡山で開催されたモトクロス日本GPに投入。8万人を越える大観衆が見つめるなか、鈴木忠男選手の果敢なライディングで序盤からリードを奪い、独走体制でデビューレースを制した。
低中速重視のパワフルなエンジン、アップマフラー、高剛性のダブルクレードルフレームに体重移動しやすいストレートシート、幅広ハンドル、セリアーニ式フロントフォーク、大径フロントタイヤ……。そして、YDS-2改よりも30kg以上軽い86kgに仕上げられたこのマシンこそ、ヤマハトレールDT-1のルーツである。
アメリカの価値観とヤマハの技術の融合
その一方、'60年代後半のアメリカは、泥沼化するベトナム戦争の影響で経済的に大きな打撃を受けていた。とりわけ、若い男性を対象とする商品は軒並み不振に陥り、すっかり市場に定着していたはずの日本製モーターサイクルも例外ではなかった。
しかし、現地の販売会社ヤマハインターナショナルは、独自のリサーチによって「今でこそ二輪車需要が落ち込んでいるが、トレールというカテゴリーは今後きっと伸びるに違いない」と判断し、日本のヤマハ発動機・本社に新商品の開発を提案した。それがDT-1誕生のきっかけである。
とはいえ、前述のとおり、国内ではまだトレールというカテゴリーさえ十分認知されていなかった時代。現地スタッフと本社開発スタッフのイメージがなかなかうまくシンクロせず、とんとん拍子に…というわけにはいかなかったが、開発者たちは戸惑いながらも現地サイドの要望をどうにか形にしようと苦心し、次の三つのポイントを重点的な開発方針に定めた。
(1) 車重は100kg以下
(2) 狭い山道を走行するため、車幅はできるだけスリムに
(3) エンジントルクは可能な限り大きくする
エンジンは、モトクロッサーYX26をベースに新設計した。250ccでありながら、基本寸法となる3軸(クランクシャフト、メインシャフト、ドライブシャフト)の配置を125ccのYA-6と同じにして、思い切った軽量・小型化をはかったのである。フレームは、高張力鋼管を採用し、ギリギリの薄肉化に挑戦。一次試作車による走行実験であちこち破損・折損を繰り返しながら、100kg以下という目標に向かって努力を重ねた。
また、DT-1の外観上の特徴である4.00-18の幅広リアタイヤは、現地からの細かい要望を取り入れて決定した。だが、幅4.00インチは当時の四輪トラックなみ。国内で二輪用にこんなサイズの製品などあるはずもなく、国内タイヤメーカーと協力して専用のユニバーサルパターン極太タイヤを作り上げた。
そしていよいよ、生産開始を前に、アメリカのモトクロスコースで最終テストを実施。さまざまな他社モデルと乗り比べた現地テストライダーは、DT-1に「保安部品を外せばモトクロッサーにも劣らない」という最高の評価を与えた。
「トレール教室」「トレールランド」で独自のオフロードワールドを確立
DT-1が初めて披露されたのは、1967年10月、ヤマハインターナショナルのディーラーミーティングでのこと。当時、アメリカ国内のオフロードモデル販売実績はおよそ4,000台前後だったが、販売部門の責任者は生産台数を決める会議で「20,000台は売れる」と主張。議論の末、初年度の販売計画を12,000台としたが、ディーラーミーティングに参加したセールスマンたちは市場の冷えきったムードを払拭し活性化させるに違いないセンセーショナルなモデルの登場に目を輝かせ、計画台数を軽くクリアする成功を収めた。
一方、輸出車として開発されたDT-1は、当初国内販売に大きな期待はかけられておらず、年間500~600台売れればよいと考えられていた。しかし、「第14回東京モーターショー」に出展したところ、それまでになかったまったく新しいジャンルのバイクとしてたちまち注目を集め、瞬く間に大ヒットモデルとなる。
その要因は、商品の魅力ばかりではない。市場導入に合わせ、ヤマハ発動機は全国の二輪販売店の協力を得ながら各地で『トレール教室』を開催し、オフロードの楽しさを多くの人に体験してもらう機会を提供。さらに1970年にはオフロードランを楽しむ施設「ヤマハトレールランド」を各地に開設し、オフロードスポーツファンを一気に拡大させた功績も大きい。
またこの成功によって、DT-1の「誰もが気軽にスポーツを楽しめる商品」というキャラクターはRT-1(360cc)やAT-1(125cc)、DTシリーズ、"ミニトレ"シリーズ、SEROWシリーズなどに引き継がれ、"ヤマハトレール"という独自のジャンル、オフロードワールドを確立していくことになる。
※このページの記事は、2003年9月に作成した内容を元に再構成したものです。
開発者インタビュー
PROFILE
作間 英輔氏
(さくま・えいすけ)
DT-1の開発で実験関係の責任者を務めた
「機能中心のバイク」。それが絶対の約束事だった
DT-1の発想そのものは、日本で生まれたわけではありません。「オフロード」や「トレール」という言葉自体、まだ日本ではほとんど認知されていない時代でしたし、そういう概念さえなかったと思います。
そんなある日、アメリカに駐在している日本人の技術者から、当時、浜北市にあったヤマハ発動機本社に相談の連絡が入ったのです。「コロラド州を担当しているアメリカ人のセールスマンが、オフロードバイクを開発して欲しいと要望している。あのあたりの市場はロードスポーツモデルがまったく売れない代わりに、ハスクバーナ(チェコ)やブルタコ(スペイン)、それにモンテッサ(スペイン)といったヨーロッパメーカーのオフロードバイクがよく売れるんだ」ということでした。
これがヤマハで初めての本格的なトレール、DT-1の開発が始まるきっかけになったんです。
しかし、コロラドで売れるからといって全米で売れるとは限りませんし、私たち日本にいる開発者はオフロードバイクと聞いても「ん?」という感じ……(笑)。市場の環境もわからなければ、何をコンセプトにすればいいのかさえつかめない状況で、まったくイメージが湧いてきませんでした。
そこでまず、現地に「どういうバイクを望んでいるのか、それを言葉と数字で出してください」と要望しました。すると「ロードクリアランスはこれくらい大きく、ただシート高はこれだけに抑えて欲しい」というような具体的な意見が返ってきて、それらをどんどん積み上げ上書きしていくと、しだいにバイクのディメンションが決まってきたんです。 次のステップは、そのディメンションを具体的な絵にすること。必要な条件をまとめ、GKデザインのインダストリアルデザイナーに依頼を出しました。
ただ、開発を進めるに当たっては、「機能中心のバイク」という絶対の約束事の上で仕事に取り組みました。たとえばデザイナーさんにも「それはデザイン上、無理です」という言葉は禁句だよ、と。ですからフェンダーの形状やマフラーの取り回しなど個々のパーツで見てもスタイリッシュな仕上がりになっていますが、その一つひとつはデザインを優先しているわけではないのです。ただ、機能を最優先にしたからこそ、デザイナーさんの力が試されるわけで、その苦労はたいへんなものだったと思います。そうでなければ、あれだけ完成された機能美を実現することはできません。
そうやってゼロからの出発でどうにかカタチになるまで漕ぎ着けたのですが、いざ走行実験の段階になったら、私たちでは何を評価基準にすればよいのかまったくわからないのです。そこで現地からテストライダーに来てもらって、富士スピードウエイのそばにある火山灰の斜面でテストを行いました。まず日本人のライダーが走ったのですが、斜面のなか腹まで進むとリアタイヤが空回りして進めなくなってしまう。といってUターンすることもできず、最終的にはコテンと転んでしまうのです。「アメリカ人が望んでいるのは登坂力、これではダメかな」という気持ちにもなりましたが、次に走ったアメリカ人のライダーは驚いたことに最後まで登りきってしまったのです。斜面の最後のところがほぼ垂直になっているのに、おかまいなし。これは乗り方から何からすべて違うんだ、と実感しましたね。
こうして完成したDT-1は、まずカリフォルニア州で火がつき、爆発的な人気を博しました。それがあっという間に西部一帯に伝わり、全米の若者の血を沸かせ、2年ほど遅れて東部エリアまで広がったのです。この分野には他社も続々と参入し、それによってますます拡大したオフロードの市場が形成されていきました。1960年代はベトナム戦争の影響でアメリカでもバイクが売れない厳しい時代でしたが、そうした時代にピリオドを打ったという点で、DT-1は大変な功績を残したバイクだったと思います。
DT-1はアメリカの価値観によって生まれてきたわけですが、一点だけ、日本人の価値観というか、ヤマハ発動機のこだわりを盛り込んだパーツがあります。それがパールホワイトに黒いピンストライプの入ったタンクの塗装です。今ではパールカラーも一般的になりましたが、当時はまだそのような技術もなく、パールの光を再現するため実際にアコヤ貝をフレーク状にして研究したりしました。例えばピンストライプを入れるには、3回塗装して2回焼付けをするというたいへんな手間と技術のいる作業ですが、それらをとことん追求し、技術革新して実現してしまうあたりにピアノの塗装で培ったヤマハの執念と誇りがあったのです。
※このページのプロフィール、および記事内容は、2003年9月の取材によるものです。