コラムvol.32
ヤマハのレース活動50年の歴史をコラムでご覧いただけます。Vol.32「ピットシステムの革新と集中力」
その日、僅かに残されていたチャンピオンの可能性が、気まぐれな雨によって押し流された。2007年9月23日、日本GPのことである。午前中に降った小雨の影響で、スタート時点の路面はまだ濡れていた。ウエットレースが宣言され、各車レインタイヤを装着してグリッドに並ぶ。ところがスタート直前、雨が止むと、路面は急速に乾きはじめた。
スタートで出遅れたバレンティーノ・ロッシは、1周目7番手、エドワーズがその後ろ8番手に付けている。その後追い上げたロッシは、トップグループとの間にあった5秒差を挽回し、14周目にトップへ躍り出た。
だがその頃、ライン上はほとんど完全に乾いており、後続のライダーたちは続々とスリックタイヤに交換を済ませていた。十分なリードを築いたロッシも、1周遅れでピットに滑り込み、ロリス・カピロッシ(ドゥカティ)の後方2番手でコースに復帰。トップを奪い返すのは時間の問題と思われた。
ところが、ここで思わぬ計算ミス。フロントタイヤにトラブルを抱え、再度ピットインを余儀なくされたのである。再びコースに戻ったロッシは15番手までポジションを下げ、その後2人を抜いたものの、13位でフィニッシュ。ヤマハライダーのうち、序盤にタイヤ交換を行ったシルバン・ギュントーリは4位と健闘したが、ポイントリーダーのケーシー・ストーナー(ドゥカティ)も6位に入り、チャンピオンを決定。ロッシとヤマハは2年連続でタイトルを失った。
そのレース直後、ヤマハ技術陣はロッシを交え、タイトル奪還に向けてミーティングを持った。ロッシが提案したのは「使用タイヤの変更」。YZR-M1は初代型からミシュランを装着しており、翌年もそれが既定路線だった。にもかかわらず、自分はブリヂストンを装着したいというのだ。
タイヤはマシン開発にとって重要課題のひとつで、GP500時代、最初にタイヤを決めなければマシン開発が始まらないとまで言われていた。もちろん1987年のように、チームラッキーストライクロバーツがダンロップ、ヤマハマールボロチームがミシュランを使用した例があり、MotoGPでもないわけではない。しかしそれは、運営母体そのものが異なるチームどうしの場合である。1チーム2台体制で、二人の選手が別々のタイヤを使用するとなれば話が違う。
メーカーの違いは設計思想に表れ、タイヤの特性や性能の違いに表れる。ライダーはお互いのライディングスタイルやセッティングについて意見交換できなくなり、チームのレースプランも違ってくる。さらにタイヤメーカー間の技術情報漏えいも懸念された。その不安を払拭する手段が、2008年のシーズンオフテスト時から実施し、周囲を大いに驚かせた1選手1ピット方式である。
監督以下すべてのチームスタッフは選手ごとに分かれ、データ管理のサーバーも独立。またキャノピーと呼ばれるピットレーンのボックスが左右に延長され、中央には仕切り板も設けられた。チームはひとつだが、ピットは区切られている。入り口のドアも別々。かつて例のないピットの様子に、あるエンジニアは「ライダーと話をするときも、そのたびにドアから出て、隣のドアからまた入る。最初は少し面倒なところもありました」という。しかし「ライダーとチームスタッフの集中力維持という意味では効果的だった。ひとつのピットで2人選手分のマシンを整備すると、互いにスタッフ同士で喋りだしたりすることも。会話は大切ですが、マシンを集中的に限られた時間内に整備する流れでみると、ピット内の区切は効果があった」。
ヤマハの総監督も「寮の二人部屋を一人部屋にしたようなもの。ライダーはすごくリラックスできるし、そのぶん二人が顔を合わせるときも、すっきりと交流ができる。あの一人部屋方式は、ひょっとしたら今後流行るかもしれませんね」と見ていた。何よりライダーがリラックスでき、必要な時に集中することに貢献するシステムだったのだ。
そして2008年、初めてのブリヂストンタイヤとの調整を詰め切れないレースもありながら、ロッシは見事タイトルを奪還。さらにミシュランを履くルーキーのホルヘ・ロレンソも、開幕から3戦連続ポールポジション。第3戦ポルトガルでは早くも初優勝を記録し、シリーズランキング4位の好成績を残した。それによって、シングルピット体制はブリヂストンが単独サプライヤーとなった2009年以降も継続され、他チームにも波及。「ヤマハピット方式」などと呼ばれる静かなトレンドとなった。