コラムvol.30
ヤマハのレース活動50年の歴史をコラムでご覧いただけます。Vol.30「2ストロークでGPを変えたヤマハが新たに挑んだ4ストロークの頂点」
20世紀から21世紀へと移る時代の狭間で、ロードレース界は大きく変動する。環境問題に関わる4ストローク化の波が、世界GPの最高峰クラスにも及んできたのである。2000年4月、FIMは2002年からGP500クラス車両規定の変更を発表。4ストロークエンジンに限って最大排気量を990ccまで引き上げ、最低重量を気筒数ごとに135kg(1~3気筒)/145kg(4~5気筒)/155kg(6気筒以上)と定めた。
しかしメーカー各社は、新しい4ストロークマシンの開発を進めながら、それまでの2シーズンを2ストローク・500ccマシンで戦い抜かなければならない。2000年シーズンに臨んで、ヤマハはマッシミリアーノ・ビアッジとカルロス・チェカ、レジス・ラコーニとギャリー・マッコイ、阿部典史の3チーム5名のライダーにYZR500(0WK6)を託した。この年、開幕戦・南アフリカGPをマッコイとチェカのワンツーフィニッシュで飾り、日本GPでは阿部が優勝。最終戦オーストラリアGPもビアッジ(ランキング3位)の勝利で締めくくったヤマハは、シーズン6勝を挙げて通算9度目のメーカーチャンピオンとなった。
この勢いをGP500ライダーチャンピオンの奪回に結びつけたいヤマハは、続く2001年、さらにチーム体制を拡充。ビアッジ、チェカ、マッコイ、阿部のほか、250ccからジャックと中野、世界選手権スーパーバイクで活躍した芳賀紀行、スペインの実力派ホセ・ルイス・カルドソを加えた8名でシーズンに臨み、ビアッジが3勝を含む9度の表彰台を獲得したが、タイトルには届かずランキング2位となった。
そして2002年、最高峰クラスはMotoGPという名称に改められ、4ストロークGPマシンのデビューシーズンがやって来た。ヤマハは、YZR500ベースのフレームにDOHC・並列4気筒エンジンを搭載するYZR-M1(0WM1)を投入。ビアッジがシーズン2勝を挙げてランキング2位に入り、チェカも開幕戦の日本GPで3位表彰台に上がるなど上々のスタートを切った。YZR500の最終モデル(0WL9)は6名がライディングし、軽さと瞬発力を生かして健闘。コンスタントにポイントを重ねた阿部※が、チェカに続くランキング6位で有終の美を飾った。
しかし、4ストロークマシンだけのシーズンとなった2003年は、フューエルインジェクション採用エンジンや新設計フレーム、エンジンマネージメント見直しなどで戦闘力を高めた新型YZR-M1(0WN3)の投入も実らず、アレックス・バロスとマルコ・メランドリを加えた2チームの最上位はチェカのランキング7位。2004年に向けて、技術者たちはこれまでの開発の方向性を再確認。エンジンにクロスプレーン型クランクシャフトを採用するなど、持てる技術とノウハウを尽した新しいYZR-M1(0WP3)を作り上げた。
そしてもうひとつ、とっておきの切り札がバレンティーノ・ロッシの獲得だった。類い稀な速さと開発能力を兼ね備え、"ドクター"の異名を取るロッシによって100%以上のポテンシャルを発揮したYZR-M1は、開幕戦からいきなりポール・トゥ・ウイン。その後も着々と勝利を積み重ね、16戦9勝という圧倒的な成績でチャンピオンに輝いた。ロッシ個人にとって4年連続、ヤマハにとっては1992年のウェイン・レイニー以来12年ぶり、500cc初参戦から通算11回目のライダータイトルだった。
だが、どれほど豊かで堅固な関係を築いても、いずれ終わる時がやってくる。ヤマハとともに7シーズンを過ごし、4度のMotoGPチャンピオンを獲得したロッシは、2010年シーズンの半ば、新たな挑戦の場を求めドゥカティへの移籍を決意。
「いろいろ状況が変わるなかで、一番変化したのは彼女、つまりYZR-M1なんだ。彼女は当時、グリッドの真ん中あたりに留まっていて、輝く存在ではなかった。ところが今やすっかり成長して進化し、賞賛され、求愛されてガレージのなかで微笑んでいる。……もっとも美しいラブストーリーは残念ながら幕を閉じるけど、僕には彼女との素晴らしい思い出がたくさん残っている」と語り、自ら育てたYZR-M1との別れを惜しんだ。
※オーストラリアGPとバレンシアGPはYZR-M1で出場