コラムvol.28
ヤマハのレース活動50年の歴史をコラムでご覧いただけます。Vol.28「レイニー、ロバーツが認めた未完の大器」
予選11番手、決勝グリッド3列目から絶妙のロケットスタート。あっという間に数台のマシンをかわした阿部典史は、1周目、王者ドゥーハンを従えながら4位でグランドスタンド前に帰ってきた。そして3周目、予選1位のクリビーレを捉えて3位に浮上。その後ドゥーハンに先行を許したものの、6周目には藤原克昭、バロスを抜いて2位……。
1996年の日本GP・500cc決勝は、まるで2年前のレースを彷彿させる阿部の快進撃で始まった。
ホンダ系サテライトチームに身を置き、弱冠18歳で1993年全日本GP500を制した阿部は、1994年、スーパーバイクを走りながら世界GP挑戦のチャンスを窺っていた。"2年前のレース"とは、その時ワイルドカードで参戦した日本GPのことである。
スタート直後からシュワンツ、ドゥーハン、ルカ・カダローラを相手に大接戦を演じ、激しくトップを争いながら、19周目第1コーナーで大クラッシュ。完走することさえできなかったが、レース関係者やファンの心に残したインパクトは強烈だった。
最初に動いたのはウェイン・レイニー。ヤマハの250ccファクトリーチームを率いる彼は、予選までの阿部の走りに注目し、「改めて連絡するよ」と声をかけていた。その言葉どおり、オファーが届いたのは数日後。すぐ自分のチームで250ccに乗ってほしい、500ccへのステップアップは2年後でどうか? そういう内容だった。
シーズン途中の移籍など常識ではあり得なかったが、あくまで世界GPにこだわる阿部の決意は固く、7月3日、スポーツランドSUGO(宮城)で全日本SB参戦中止とチームレイニー加入が発表された。
そして2週間後、阿部はドニントンパークにいた。フランスGPで左足に重傷を負ったチームロバーツのダリル・ビーティに代わって、イギリスGPの500ccクラスに出場するためである。
ただ正確にいえば、彼はこのレースを走っていない。フリー走行で転倒し、右手の指を骨折してしまったからだ。それでも続くチェコGP、アメリカGPの出場機会を与えられ、どちらも6位でフィニッシュ。これによって、1995年、チームロバーツから世界GPフル参戦が決定した。
ところがそれは、試練の始まりでもあった。理想と現実の狭間にあえぐレースが続き、表彰台は3位1回が精いっぱい。転倒も多く、不本意なランキング9位に終った。
1996年シーズンが始まっても、状況はいっこうに変わらない。開幕戦マレーシアGPで8位、インドネシアGPが9位……。2年前の、あの走りを取り戻せ! 誰よりもそう望んでいたのは阿部自身だった。
今の自分に足りないものは何か……。繰り返し繰り返し、何度もビデオを見てイメージを頭に焼き付ける。恐い物知らずの闘争心。ただひたすら、勝つことだけを考えていた。
そして4月21日、日本GP決勝。忘れていた感覚を甦らせた彼は、8周目、ドゥーハンをパスしてトップに立つ。まさしく2年前の再現だった。
しかし、違うのはそこから先。溜まっていた悔しさを爆発させる豪快なパワースライドでYZR500を操り、誰にもポジションを譲らない。やがてドゥーハンがジリジリとポジションダウン。食い下がるバロス、青木拓磨は転倒して戦列を離れ、2位に着けたクリビーレも中盤で追撃を諦めた。
それでも阿部は、ペースを緩めるどころか、終盤さらにタイムを上げてファステストラップを連発。最後は7秒近い大差でフィニッシュした。
絶叫と涙、笑顔が交錯する。
「これで勝てなきゃ転んだほうがマシ。そう思ってガンガンに攻めた。途中で後ろが着いてこなくなったのは知っていたけれど、ペースを落としたら自分に負ける。ぶっちぎって勝ってやろうと考えたんです。でも、転ばなくて本当によかった(笑)」