コラムvol.27
ヤマハのレース活動50年の歴史をコラムでご覧いただけます。Vol.27「全日本選手権から世界GPへ 豊かな才能が芽吹いた1990年代」
1980年代、日本のモーターサイクル社会は、俗にいう"レーサーレプリカ"ブームに沸いていた。その火付け役となったのは、鈴鹿8時間耐久レースや4時間耐久レースに端を発するTT-フォーミュラレース人気であり、鈴鹿8耐やTBCビッグロードレースで垣間見るケニー・ロバーツやエディ・ローソン、スペンサー、ガードナーらGPライダーたちの活躍だった。
さらに1986年、世界GP250にフル参戦した平忠彦がサンマリノGPで優勝。1987年には日本で20年ぶりの世界GPが開催(500ccは初)され、250ccクラスで小林大(ホンダ)が優勝。500ccクラスでも伊藤巧(スズキ)が3位に入る活躍を見せ、それらが刺激となって国内レースのレベルアップをいっそう促した。
そして1990年代、全日本選手権は豊饒な実りの時を迎え、白熱したレースでファンを魅了するとともに、世界に通用する選手を次々と輩出していく。
ヤマハからは、1993年、23歳の若さで世界GP250へフル参戦した原田哲也。スズキに移籍したコシンスキー、ホンダのビアッジやカピロッシ、ロンボニ、アプリリアのレジアーニ、ルジアなど強豪がひしめくなか、ハンドリング性能に優れたTZ250Mを自在に操り、開幕戦オーストラリアGPでいきなり初優勝。さらに日本GP、スペインGP、FIM GPの年間4勝を挙げ、片山敬済(1977年/350cc)に次ぐ2人目の日本人GPチャンピオンとなった。
その後も、1998年・1999年全日本250チャンピオン、中野真矢や松戸直樹が参戦。ホンダの宇川や加藤らとともに世界GPを華やかに盛り上げた。
またヤマハは、1994年、市販レーサーTZ125の販売とGP125でのレース活動を再開。ホルヘ・マルチネスのチームにファクトリー仕様のTZ125と、その先行開発モデルで1993全日本125を制した加藤義昌を送り込み、1996年からは宇井陽一がドイツのチームから参戦。TZ125で3年間(以後デルビに移籍)GPを戦った。
しかし、この頃もっともセンセーショナルな活躍を見せたのは、やはり"ノリック"阿部典史だろう。ウェイン・レイニーやケニー・ロバーツに才能を見込まれ、1994年、弱冠19歳でヤマハファクトリーチームに途中加入。翌年からGP500フル参戦し、1996年の日本GPで初優勝。GP500がMotoGPへと移り、2ストロークマシン最後のシーズンとなった2002年までYZR500とともに戦い続け、通算3度の優勝を果たした。2007年、不慮の交通事故で惜しくも夭逝されたが、その功績はいまなお語り継がれている。