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ヤマハ発動機株式会社 Revs Your Heart

コラムvol.26

ヤマハのレース活動50年の歴史をコラムでご覧いただけます。Vol.26「GP500活性化とレイニー3連覇 目標をかなえたヤマハの明暗」

vol.26 1990-93/RR/World Grand Prix GP500活性化とレイニー3連覇 目標をかなえたヤマハの明暗

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1992年、開幕戦から苦戦を強いられたウェイン・レイニーは後半粘り強く巻き返し、開催が危ぶまれた第12戦ブラジルGPでも優勝。ケガから復帰したドゥーハンを2ポイント差まで追い詰めた

 進境著しいウェイン・レイニー、シュワンツ、勝負強いベテランのガードナー、クリスチャン・サロン。個性豊かなスター選手が覇を競うなか、2年連続4度目のチャンピオンに輝いたエディ・ローソンがヤマハに復帰……。1990年の世界GP500は、いっそう激しさを増すであろうタイトル争いに注目が集まっていた。
 ところが、そうした周囲の盛り上がりとは裏腹に、例年30台近いマシンがそろう開幕戦日本GPで、予選に参加したのは26台。さらに第2戦アメリカGPは17台まで減少、ヨーロッパに戻った後も第3戦スペイン、西ドイツ、オーストリア……多くのレースで20台を割り込んだ。少なくとも数年間、平均30台を維持してきたGP500で、一体何が起こったのか?
 理由は単純、マシンの供給不足にあった。最新ファクトリーマシンが年々進歩を遂げる一方、TZ500などの市販レーサーはしだいに開発が滞り、旧式化していく。またファクトリーマシンが先鋭化すればするほど開発費が嵩み、製作台数は少なくなる。それによってサテライトチームにわたる旧型モデルやエンジンの数も減り、高価になっていく。そして多くのプライベートチームは、上位を狙うどころかマシンの入手さえ困難な状態に追い込まれ、撤退を余儀なくされていたのだ。
 そこでヤマハは、急きょ、前年型YZR500(0WC1)と単体エンジンの貸与を実施。さらにその秋、ヨーロッパのコンストラクター、ハリスとROCを通じて0WC1エンジン10基を販売すると発表。1992年の開幕戦日本GPでは、エントリー台数の約60%にあたる23台のYZR500とYZR500エンジン搭載車がリストに名を連ねた。

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レイニーが初めてGP500タイトルを獲得した1990年型0WC1。1992年以降、このエンジンがROCとハリスを通じて市販され、後にフレームデータも提供された

 その一方、ヤマハファクトリーのエースに成長したレイニーは、1990年、1991年連続でシリーズチャンピオンを獲得。チーム監督のケニー・ロバーツと並ぶ3連覇に挑もうとしていた。しかし、日本GP決勝は雨。シーズンオフのテストで左手を負傷していたレイニーは予選9番手に沈み、開始早々の2周目、前走者の水煙に視界を遮られて転倒。予想外のノーポイントに終わった。
 ホンダNSR500に乗るドゥーハンは、開幕から4連勝でタイトル争いをリードする。レイニーも第6戦ヨーロッパGPで一矢を報いたが、第7戦ドイツGPで再び転倒・リタイヤし、続くオランダGPを欠場。もうチャンスはないと思われた。
 GP500活性化のためとはいえ、レーシングエンジンを大量生産する負担がファクトリーマシン開発の遅れを招き、現場の要望にも素早く対応できなかった……。レイニーが移籍を希望している……。そんな批判や憶測があちこちで囁かれた。
 だが、まだシーズンは終っていなかった。5勝・2位2回と抜群の強さを見せていたドゥーハンが、オランダGPで転倒。重傷を負って長期欠場を余儀なくされ、再びチャンスが巡ってきたのだ。その後4戦2勝、ドゥーハンとの差を2ポイントまで縮めたレイニーは、最終戦・南アフリカGPで慎重に3位フィニッシュ。みごと逆転チャンピオンに輝いた。

「シーズン中、欲しいものがすぐ手に入らない状態だったのは確かだ。移籍を考えたこともある。しかし、ヤマハはたくさんのエンジンを作ってGP活性化に貢献した。それは事実だよ。今年ダメだったとしても、現場にいるエンジニアやスタッフのせいじゃない。彼らはいつも全力を尽くしてくれたし、来年こそ絶対に勝てるマシンを作ると約束してくれた。だから僕は、来年もヤマハで走る。最高にハッピーな気分さ」
 1993年もファクトリー活動と市販エンジン供給を両立したヤマハは、2年ぶりのメーカーチャンピオンに返り咲き、ヤマハ系ライダー29名がポイントを獲得。平均エントリー台数も33台まで増えていた。
 しかしこの年、ミサノサーキットで開催された第12戦イタリアGP、トップを走行中のレイニーが、10周目第1コーナー立ち上がりでハイサイドを起こして転倒。背中に深刻なダメージを負い、このシーズンばかりか、レーシングライダーとしての未来まで断たれてしまった。そしてヤマハは、2000年メーカーチャンピオンに返り咲くまで6シーズン、ライダーチャンピオンにいたっては2004年まで11シーズンもの間、最高峰クラスのタイトルから遠ざかることになる……。

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