コラムvol.23
ヤマハのレース活動50年の歴史をコラムでご覧いただけます。Vol.23「Vツイン・YZR250最初のチャンピオン」
それまで3番手をキープしていたカルロス・ラバードは、残り周回が4周となったところで、猛然とラストスパートに入った。
1986年世界GP250・第10戦スウェーデンGP決勝。無理をすべき場面でないことはわかっていた。そのまま3位でゴールすれば、2度目の世界GP250チャンピオンが決まる。
だからといって、中途半端なレースでシーズンを終わりたくない。勝つチャンスがあるかぎり、つねに全開。それが自分のスタイルだ。そう自らを鼓舞したラバードは、アクセルを握る右手に神経を集中し、コーナー立ち上がりの加速に備えた。
彼のマシンは、1983年、初めてGP250を制した頃のTZ250から、飛躍的な進化を遂げていた。新開発のVツインエンジンを搭載するYZR250(0W82)である。
次の周回、抜群のハンドリング性能を生かして2位に浮上し、まもなく先頭を走るホンダのポンスも射程内に捉えたラバードは、一気にトップへ躍り出たーー。
ヤマハV型エンジンのルーツは、最初のチャンピオンマシンRD56(並列2気筒)に代わって1965年に登場した、250cc空冷V4のRD05まで遡る。それはやがて水冷のRD05Aに進化し、1968年世界チャンピオンにも輝いたが、気筒数とトランスミッション段数を制限するレギュレーション変更によって活躍の場が消滅。その後、並列2気筒の市販レーサーTD-2、TD-3やTZ250が250ccクラスの主力マシンとして定着し、V型エンジンは長い間封印されていた。
だが1982年、技術革新が激しいGP500で並列4気筒、スクエア4気筒に代わる先進的なエンジンを求めたヤマハは、V型4気筒のYZR500(0W61)を開発。2年後には、その発展モデル0W76でエディ・ローソンがチャンピオンを獲得する。
GP250では、カワサキKR250が1978年から1981年まで4連覇。対するヤマハは、従来の並列2気筒エンジンをショートストローク化して高回転・高出力型に改良し、さらにモノクロスサスペンションやYPVSなどYZR500からフィードバックした技術を積み重ねて戦闘力を高め、1982年から1984年まで3年連続チャンピオンを獲得した。
すると今度は、250ccにほとんど興味を示さなかったホンダが、V型2気筒エンジン搭載のファクトリーマシンRS250RWを開発。1984年の全日本GP250でいきなりチャンピオンを獲得し、1985年にはスペンサーとのコンビで世界GP250にもファクトリー参戦。圧倒的な強さを見せつけた。
そこでヤマハも、急きょファクトリーマシンYZR250(0W82)の開発に着手。エンジンは、最新型YZR500(0W81)のV型4気筒エンジンを縦割りにしたVツインで、振動低減のため同爆方式を採用した。高剛性・軽量な車体とのバランスもよく、テスト投入した1985世界GP最終戦でラバードがホンダのマンクを抑えて優勝。そのポテンシャルの高さを証明して見せた。
そして1986年開幕戦、ラバードは同じYZR250に乗るマーチン・ウィマー、平忠彦に続く3番グリッドで決勝を迎えた。シグナルがグリーンに変り、マシン群が一斉に唸りを上げる……。その瞬間、大きなアクシデントが起こった。スタートに失敗した平に後続車が次々と追突し、コース上は大混乱。しかもその前方で、無事スタートしたはずのラバードまでがクラッシュ!
だが赤旗、再スタートによってリタイアのピンチを救われたラバードは、破れたツナギでTカーに乗り換えると、NSR250のマンクを抑えて優勝。第2戦は0秒13差の2位となったが、続く西ドイツ、オーストリアで連勝。そのままランキングトップをひた走り、スウェーデンGPの開催地アンダーストープに乗り込んだのである。
そしてレース終盤、満を持してトップに立ったラバードは2位ポンスとの差を4秒まで広げ、歓喜のフィニッシュ! 250ccV型エンジンのヤマハファクトリーマシンが、RD05A以来18年ぶりのチャンピオンを手に入れた瞬間だった。