コラムvol.22
ヤマハのレース活動50年の歴史をコラムでご覧いただけます。Vol.22「真のチャンピオンが目覚めたデイトナ200」
1983年世界GP500。熾烈を極めたタイトル争いは最終戦イモラまでもつれ込み、いよいよ決着の時を迎えようとしていた。
トップを行くのは、マールボロカラーをまとうケニー・ロバーツのYZR500。しかし真後ろにはぴったりとホンダのスペンサーがつき、数秒後方には同じく赤いYZRに乗るエディ・ローソンがいる。このまま順位が変わらなければ、スペンサーがチャンピオン。もしローソンがスペンサーをパスすれば、ロバーツの4度目のタイトルが決まる。
巧みにスペンサーをブロックしながらペースダウンし、ローソンが追いつくのを待つロバーツ。だがローソンは来ない。ついに未練を断ち切るようなラストスパートでスペンサーを突き放したロバーツは、トップでフィニッシュラインを駆け抜け、3位に終わったローソンは、ピットに戻り、小さく「Sorry」と呟いた。
そして1984年、デイトナ200マイルでロバーツ最後のレースをともに戦ったローソンは、新しいヤマハのエースとして世界GPシーズンに臨み、初のチャンピオンを獲得。1年前に味わった屈辱を晴らした。
しかし、どこか釈然としない。この年はスペンサーにマシンの不調や転倒などアクシデントが多く、自らの力で勝ち取った充実感に欠けるのだ。しかも翌年、7勝を挙げたスペンサーに悠々とタイトルを奪い返され、心にくすぶる思いはさらに大きくなった。
GP参戦4年目の今度こそ、誰が立ちはだかろうとも自らの力を信じて戦い、世界一の座を取り戻さねばならない。そう決意したローソンは、1986年GPシーズン直前のデイトナ200に特別な気持ちで臨んだ。
2年ぶりのタイトルを狙うヤマハが用意したマシンは、4ストローク・DOHC・5バルブの4気筒エンジンを搭載するFZ750。新発売した1985年は準備が整わずファクトリー参戦を見送ったものの、プライベートチームに20台を供給。ほとんど市販状態でありながら、7台が上位でフィニッシュする活躍を見せていた。ファクトリー仕様にモディファイしたFZ750にローソンが乗るとなれば、前年優勝のスペンサー(ホンダ)にとって、最強のライバルとなることは間違いない。
ところがレース当日、新しいVFR750で出場するはずのスペンサーが風邪で欠場。直接対決はまたも肩透かしとなったが、もはやローソンに落胆や動揺する様子は見られない。予選でスペンサーの持つレコードを軽々と破り、ホンダのレイニーやマーケル、スズキのシュワンツらを圧倒。決勝でも、シュワンツやレイニーと白熱したバトルを展開しながら徐々にリードを広げたローソンは、レイニーがタイヤトラブルで後退すると完全に独走態勢。そのまま初めてのデイトナ200優勝を果たした。
そして表彰式のあと、静かな表情でこう語った。
「GP開幕前に完璧なレースができて、すごく満足している。GPでも自分のレースをするだけさ。きっと最高の結果が出せると確信しているよ」
その言葉は、シーズン最終戦を待たず、裏付けられることになる。