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コラムvol.21

ヤマハのレース活動50年の歴史をコラムでご覧いただけます。Vol.21「デイトナ+鈴鹿=キャラミ。“勝利のDNA”方程式」

vol.21 1984/RR/World Grand Prix デイトナ+鈴鹿=キャラミ。”勝利のDNA”方程式

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ケニー・ロバーツが現役の頃から、彼に影響を受け、導かれて大成したライダーは少なくない。エディ・ローソン(♯21)や平忠彦(♯310)、後のウェイン・レイニーもそのひとり

 1984年3月11日、渡り鳥の群れが飛び交うフロリダ州・デイトナ国際スピードウェイでは、世界最速の名誉を賭けたアメリカ最大の二輪イベント、デイトナ200マイルレースが開催されていた。
 13連勝を狙うヤマハは、前年と同様、スクエア4・ロータリーディスクバルブエンジンのYZR500をデイトナ専用にモディファイしたYZR700(0W69)で参戦。決勝はケニー・ロバーツとエディ・ローソン、NSR500に乗るスペンサーの争いとなったが、タイヤ交換なしで走り抜いたロバーツが独走体制を築いて優勝した。
 またこのレースには、前年初めて全日本500ccクラスを制した平忠彦も出場。予選18位からみごとな追い上げを見せ、4位のローソンに続く5位入賞を果たした。
 だが当時の平にとって、5位という成績よりも、キング・ケニーやその後継者と期待されるローソンとともに戦い、競い合った経験こそ貴重だった。それは「自分のキャリアのなかで、もっとも多くのことを吸収できたレース」というコメントにもはっきりと表われていた。

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0W76は、河崎裕之(左)がスズキからヤマハに戻って最初に開発を手がけた自信作だったが、ゴール寸前のマシントラブルで優勝を逃した

 一方、その同日、小雪の舞う鈴鹿サーキットでは「2&4」レースが開かれていた。国内最高レベルの四輪、二輪レースが同時に観戦できる画期的なこのイベントは、二輪レースをより多くの人に見てもらいたいというライダーや二輪関係者の働きかけで実現したもので、全日本選手権ではこれが開幕戦となっていた。
 ヤマハは、平がデイトナ遠征中のため、河崎裕之をGP500のエースとして起用。マシンも、新たにバーチカル型リアショックを織り込んだV型4気筒の0W76(シーズン途中、吸気方式をロータリーバルブからクランクケースリードバルブに変更)を用意した。
 世界GPの開幕が2週間後に控えており、最終テストを兼ねての選択だったが、河崎と新型YZR500は期待どおりの好スタートを見せ、序盤からレースを支配。その後も快調に走行を続ける河崎は、周回ごとに後続との距離を広げ、十分なアドバンテージを保ったまま最終ラップに入った。
 ところがその時、勝利の女神の微笑みが消え、緩やかな下り勾配が続く最終コーナーからホームストレートに向かって、YZR500がゆっくりと下りてくるのが見えた。大きな身体を小さくしてカウルに伏せたまま、勢いを失ったマシンがフィニッシュラインに辿り着くのを待つ河崎。その横をホンダとスズキの2台がすり抜けていった。
「原因はエンジン関連のトラブル。あの時は本当に悔しかった。目の前で優勝が消えてしまったんですから。でもすぐに対策を織り込み、改良したエンジンを南アフリカに送ることができた。それがエディの初優勝につながったんです」。河崎は、後日淡々とこう語った。

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ロバーツに代わるエースとして臨んだ1984年、ローソンは開幕戦・南アフリカGPで初優勝。年間142ポイントを獲得し、シリーズチャンピオンにも輝いた

 その言葉どおりローソンは、3月24日、開幕戦・南アフリカGPに出場。雨のキャラミサーキットで0W76を駆り、世界GP500通算31勝の第一歩となる初勝利を手に入れた。  さらにこの年、ロバーツから受け継いだテクニックやノウハウを糧に、ローソンが初めての世界タイトルを獲得。平も2年連続の全日本チャンピオンとなった。

 ロバーツ、河崎からローソン、平へ。1984年3月に開催された3つのレースには、4人のライダーを経由してヤマハの技術とスピリットが継承されていく過程が、鮮やかに描き出されていた。

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