コラムvol.20
ヤマハのレース活動50年の歴史をコラムでご覧いただけます。Vol.20「V4への序章。スクエア4エンジンが繋いだ未来」
1981年の世界GPシーズンは、前年500ccクラス3連覇を達成した"キング"ケニー・ロバーツを中心とする攻防戦で幕を開けた。
ストップ・ザ・ケニーの一番手は、安定した性能と信頼性を誇るRGB500に、マモラ、ルッキネリ、ウンチーニ、クロスビーなど多くの有力ライダーを擁するスズキ。3年目のホンダNR500、2年目のカワサキKR500も熟成の度を高めていたが、スズキはさらに軽量・コンパクト化を進めたニューマシンRGΓ500まで投入。開幕戦でいきなり1-2-3フィニッシュをやってのけた。
それに対し、ディフェンディングチャンピオンのヤマハも、並列4気筒最終モデルのYZR500(0W53)とロータリーディスクバルブ吸気・スクエア4気筒の0W54を同時投入。第2戦、第3戦とロバーツが連勝し、バリー・シーンも第3戦で3位表彰台を獲得するなど、タイトル争いは序盤戦からがっぷり四つの展開となった。
ところがその後、フランス、ユーゴスラビアとスズキに連勝を許し、ヤマハチームの歯車は大きく狂いはじめる。雨の第6戦オランダGPで、ロバーツは不可解なマシントラブルに見舞われて出走できず、シーンもエンジンに水を吸い込んで脱落。サンマリノGPではロバーツが体調を崩して棄権し、シーンは地元・イギリスGPで他車の転倒に巻き込まれてリタイア。その間に、スズキのルッキネリとマモラは着々と優勝を重ね、ランキング3位につけるロバーツとの差を大きく広げていった。
不運続きのシーズン、ヤマハチームにとって唯一の光明だったのは、0W54が従来のピストンバルブ吸気・並列4気筒マシンに比べて飛躍的なパワーアップを遂げたこと。なぜならこの年、次世代を担うV型4気筒エンジンがすでに開発途上にあり、0W54はロータリーディスクバルブの先行テストも兼ねていたからだ。
エンジニアのひとりはこう明かす。
「ロータリーディスクバルブを実戦で使うのは、1960年代の125cc、250ccレーサー以来。いきなり500cc・V4に採用するとリスクが大きいので、まずスズキと同じスクエア4で使ってデータを蓄積しようと考えたわけです」
だからといって、負けたままでは終われない。来るべきシーズンに希望をつなぐレースをしなければ。その思いがチーム全体に再びモチベーションを与え、最終戦・スウェーデンGPで結実する。1分39秒54の予選ベストタイムを叩き出し、ポールポジションを獲得したのは、チャンピオンに邁進するルッキネリでも逆転を狙うマモラでもなく、ヤマハでの初優勝に執念を燃やすシーンだった。
ところが決勝は激しい雨。カワサキのバリントンがスタートから飛び出すが、やがて目まぐるしく順位を入れ替える混戦となり、ついにマモラがコースアウト。ロバーツもタイヤに問題を抱えて戦列を離れ、ルッキネリは安全優先の走りに徹しはじめた。
すると20周目、タイミングを見極めていたシーンが満を持してスパート。一気にトップを奪い、並列4気筒・YZR500のファン・ドルメンを従えながら、快調なペースで後続を引き離していく。そして最終ラップ、ヤマハどうしの接戦を制したシーンが堂々のファーストフィニッシュを飾った。
翌年、スクエア4・YZR500は0W60に進化し、開幕戦で1位・2位を独占。さらにロータリーディスクバルブは第2戦で投入したV型4気筒・0W61に採用され、2ストロークGPマシンの新しい可能性を示した。
ヤマハに在籍した3シーズンで、シーンの優勝は1度だけ。だがこの1勝は、0W54が積み重ねた成果を確かめ引き継ぐ、大きな勝利となった。