コラムvol.19
ヤマハのレース活動50年の歴史をコラムでご覧いただけます。Vol.19「ファクトリー参入が進化を早めたGP250 TZ250から引き継いだYZR250の栄光」
ヤマハにとって世界GP250は、1963年に初優勝、1964年には初めてのメーカー/ライダー両タイトルを獲得した、特別な意味を持つカテゴリー。ファクトリー活動休止後も、市販レーサーTD-2、TD-3やスペシャルパーツ、先行開発モデルの投入により、1970年から1973年までタイトルを独占した。
しかし1973年、500ccクラスへのファクトリー参戦を開始したヤマハは、新型市販レーサーTZ250を発売する一方、徐々に250ccクラスでの活動を縮小。代わってハーレー・ダビッドソンやモルビデリ、カワサキのファクトリーチームが勢いを盛り返し、タイトルを独占。スターティンググリッドの大半を占めるTZライダーたちは、しだいに勝利から見離されていった。
そこでヤマハは、1976年型TZ250にモノクロス・リアサスペンション、ディスクブレーキを採用。1979年モデルには新型フレームとリアアーム、ハングオフスタイルに適した新形状のフュエルタンクを移植するなど戦闘力アップに努めた。1981年型TZ250は、より高回転・ハイパワーなエンジンをめざし、TD-3から継承してきた54×54mmのボア×ストロークをショートストローク化。さらに新設計の専用クランクケース、トルクの谷を解消する排気デバイスYPVSの採用で大きく進化した。
そして1982年、長い停滞期にピリオドを打ったのが、フランスの新鋭ジャン・ルイ・トルナード。地元での開幕戦を初優勝で飾った彼は、その後も2位4回、3位3回と着実にポイントを加算。1980年・1981年チャンピオンのマンクを1ポイント差で抑え、TZ250をおよそ10年ぶりの世界一に導いた。
これによって流れを引き戻したヤマハは、1983年カルロス・ラバード、1984年クリスチャン・サロンの活躍で3年連続のライダー/メーカーチャンピオンを獲得。再び世界GP250の頂点に返り咲いたが、そこに待ったを掛けたのがホンダ。2ストローク・Vツインの市販レーサーRS250Rを開発し、翌1985年、ファクトリー仕様のRS250RWでスペンサーが世界GP250を席捲。500ccとともに2クラス制覇を成し遂げた。
ヤマハも、TZ250にクランケースリードバルブ吸気エンジンやアルミデルタボックスフレーム、後方排気システム、前後17インチホイール&ラジアルタイヤを採用して対抗。また1986年には、同時爆発・2軸クランクVツインエンジン搭載のファクトリーマシンYZR250(0W82)を投入。全11戦6勝を挙げたラバードが自身2度目の世界チャンピオンに輝き、念願のフル参戦を果たした平忠彦は最終戦サンマリノGPで初優勝を飾った。
その後、250ccクラスはアプリリアを加えた三つ巴のVツインバトルに発展。ヤマハは1軸クランク・偶力バランサー採用の90度VツインエンジンでYZR250/TZ250を進化させ、1990年代、さらに熾烈な争いに飛び込んでいくことになる。