コラムvol.18
ヤマハのレース活動50年の歴史をコラムでご覧いただけます。Vol.18「たゆまぬ技術革新で世界をリード」
1980年代、世界GP500は、ケニー・ロバーツの3年連続チャンピオンという偉業で幕を開けた。
ロータリーディスクバルブ吸気・スクエア4エンジンを熟成させ、台頭著しいスズキも並列4気筒エンジンのYZR500をしのぐ勢いを見せ続けていたが、ヤマハは独自の排気デバイスYPVSを装備することで戦闘力をアップ。さらに1980年には、YZR500初のアルミフレームを採用した0W48、並列4気筒の外側2気筒を後方排気とした0W48Rを投入。また孤軍奮闘するロバーツを援護すべく、スズキからバリー・シーンを獲得。絶え間ない技術革新と、傑出したライダーの能力によって王座を守り抜いてきた。
しかし1981年、ついに均衡は破られた。0W48Rの発展モデル0W53に加え、スクエア4エンジン搭載の0W54を同時投入したヤマハだが、不測のマシントラブルやロバーツの体調不良による欠場が重なって、世界GP500のタイトルはスズキのルッキネリに移った。
もはや並列4気筒の時代ではない。何か抜本的な変化、新しい可能性に活路を求めたヤマハは、アプローチの異なる2種類のYZR500を用意して1982年シーズンに臨んだ。そのひとつが0W54の発展型、ロータリーディスクバルブ吸気・スクエア4エンジンを搭載する0W60。開幕戦アルゼンチンGPでさっそくロバーツとシーンが1-2フィニッシュを飾り、順調な仕上がりをアピールした。
もうひとつは、ザルツブルクリンクの第2戦オーストリアGPでデビューした、500cc初のV型4気筒マシン0W61。前面投影面積をより小さくする2軸クランクエンジン、アンダーループ部を省略した新形状フレーム、横置きサスペンションなど随所にヤマハ独自の新しいトライを盛り込んだ意欲作である。
ところが、0W60と0W61をGPごとに使い分けたロバーツはランキング4位に終わり、0W60でフルシーズンを戦ったグレーム・クロスビーが2位を獲得。結果からみれば、0W61へのこだわりが再びチャンピオンを逃す一因だったと言えるが、ヤマハの技術的発展に大きな足跡を残す転換点となったことも事実である。
翌1983年、復活を賭けるロバーツは、熟成したV4エンジンを新設計アルミデルタボックスフレームに搭載し、飛躍的に進化したYZR500(0W70)で参戦。2ストロークにスイッチしたホンダのV型3気筒・NS500を駆るスペンサーと、一騎討ちのタイトル争いを展開した。その結果、スペンサーと並ぶ優勝6回、2位3回、PP6回を記録したロバーツだが、通算2ポイントの差で敗れ、世界GP引退を決意した。
しかしその後、YZR500はさらに進化してエディ・ローソンを3度チャンピオンに押し上げ、ヤマハが持ち込んだ2ストローク・V型4気筒、アルミフレームはやがてGP500マシンの標準仕様となった。