コラムvol.17
ヤマハのレース活動50年の歴史をコラムでご覧いただけます。Vol.17「ヤマハレーシングチームのシンボル”スピードブロック”グラフィック」
2005年、創立50周年を迎えたヤマハは、ロードレースの最高峰MotoGPクラスでスペシャルカラーを施した2種類のYZR-M1を走らせた。1つはイエローボディにブラックの「スピードブロック」グラフィックを施したアメリカGPバージョン、もうひとつは同じグラフィックを白地に赤のラインで描いたバレンシアGPバージョンである。
現在モトクロッサーYZシリーズや市販スポーツモデルでおなじみのスピードブロックとは印象が異なり、直線的で古めかしくも見えるが、これこそかつて「チェーンブロック」と呼ばれた原形に近いデザインなのだ。
チェーンブロックが誕生したのは、1970年代前半、アメリカでのこと。1958年カタリナGP、1961年デイトナGPで初めて進出の足がかりをつかんだヤマハは、当時、親会社だった日本楽器(現ヤマハ株式会社)の現地法人ヤマハインターナショナルコーポレーション(YIC)を拠点としてモーターサイクル事業を展開していた。
だが、知名度も実績も低いヤマハが、地元アメリカやヨーロッパのメーカーに伍していくのは容易ではない。そこでYICは、ヤマハ製品の優秀性をアピールするため、積極的にレース活動を推進。またマシンにも、鮮やかなコントラストでよく目立つイエローとブラックのカラーリング、四角いブロックがチェーンのようなラインを描くグラフィックパターンを採り入れたといわれている。
1973年・1974年のAMAグランドナショナルシリーズを連覇したケニー・ロバーツ、1974年にシリーズ化されたAMAスーパークロスで初代チャンピオンを獲得したピエール・カールスマーカーやその後継者"ハリケーン"ボブ・ハンナらの活躍が、黄色と黒のチェーンブロック=ヤマハというイメージを定着させたのだ。
一方、ヤマハ本社のファクトリーチームを振り返ると、1950年代、カタリナGPのYDレーサーや第3回浅間火山レースのYDS-1改は、タンクからシートまで赤一色のカラーリング。1961年の世界GPマシンRD48(250cc)やRA41(125cc)も、白いカウルに黒いタンクの極めてシンプルなものだったが、1964年以降、白地に赤い1本ラインのカラーリングが施された。
その後、1973年から500ccクラスで新しい挑戦を開始したヤマハは、伝統の白地に赤いストライプを踏襲しつつ、濃紺の縁取りラインをあしらった新しいカラーリングを採用する。そして1978年、おなじみの赤いラインにタテのスリットラインが入り、アメリカで定番となっていたチェーンブロックと融合。このカラーリングが後に"ブロックパターン"と呼ばれ、ロードレースからモトクロス、トライアルまですべてのカテゴリーのマシンに浸透。やがて市販スポーツモデルにも積極的に展開され、赤/白ブロック=ストロボ、黄・黒ブロック=インターカラーといった通称・俗称も生まれるほど、マスコミやファンに深く親しまれた。
また、デザインアレンジもしだいに大胆になり、ブロックの形や大きさ、配列、さらには配色も含めて多種多様なバリエーションが生まれた。それはもはや、かつてのブロックパターンではなく、四角いブロックの連鎖という基本法則だけでヤマハレーシングチームをイメージさせる、新たなビジュアルアイデンティティ(VI)「スピードブロック」の確立を意味していた。
1980年代以降、ファクトリーマシンを華やかに彩ったスポンサーカラーも印象深いが、けっしてヤマハ固有のものではない。このスピードブロックこそ、社章たる音叉マークとともに受け継がれるべき、ヤマハモータースポーツの象徴なのだ。