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ヤマハ発動機株式会社 Revs Your Heart

コラムvol.16

ヤマハのレース活動50年の歴史をコラムでご覧いただけます。Vol.16「AMA No.1から世界の“キング”へ」

vol.16 1979/RR/World Grand Prix AMA No.1から世界の”キング”へ

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AMAでは1973年、1974年の2年連続グランドナショナルチャンピオンを獲得

 アメリカンライダー、ケニー・ロバーツが初めてヨーロッパのレースに出場したのは1974年4月、イタリアのイモラ200マイルだった。
 前年、AMAグランドナショナルチャンピオン、つまりロードサーキットとオーバルトラック、ダートトラックの総合ナンバーワンを獲得したばかりの彼は、TZ750(700cc)の初レース、デイトナ200マイルに出場。ジャコモ・アゴスチーニと接戦を演じて2位となり、YIC(Yamaha International Corporation)チームの監督に就任したケル・キャラザースの奨めもあって、同じフォーミュラ750のイモラ参戦を決めたのだ。

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ジャコモ・アゴスチーニに続き、ヤマハで2人目のGP500チャンピオンとなったケニー・ロバーツは、その後3年連続でゼッケン1を守り通した

 その時ロバーツは23歳。世界GPへの参戦も考えているかと尋ねられ、「アメリカのレースが休みの時期だし、ヤマハが望んだから来てみたのさ」と興味なさげに答えたが、実は6月のオランダGPの250ccクラスに出場し、ファステストラップと3位表彰台を獲得している。アメリカの総合チャンピオンとヨーロッパの世界GPチャンピオン、両方を獲得した選手はまだなく、いずれ自分が最初のひとりになりたいと考えていたのだ。
 そして1978年、その夢に挑戦する時がやって来た。
 マシンは、エンジン回転数に応じて最適な排気タイミングを確保する画期的な可変式排気バルブシステム、YPVSを初めて装備したピストンバルブ・並列4気筒のYZR500(0W35K)。
 1974年、排出ガス規制対策の研究から生まれたYPVSは、2ストロークの特有の吹き抜け現象を防ぐだけでなく、トルクの谷を解消して性能向上をはかるデバイスとしても非常に有効だったため、モトクロッサーでの実績を踏まえて採用された技術。ロバーツも「この500ccはデイトナ用のYZR750(0W31)よりパワーバンドがやや狭いけれど、軽量で扱いやすく、10,000~12,000回転をキープすれば750ccなみのトップスピードを発揮した。どのチームにも負ける気はしなかった」と評している。
 YMUS(Yamaha Motor Corporation, U.S.A.)がYIC時代から引き継いだ黄色地に黒いチェーンブロックラインのカラーリングをまとうロバーツは、その言葉どおり、168cmの小柄な体をアグレッシブに使いながら、意図的にリアをスライドさせる巧緻な技術で自在にマシンをコントロール。軽やかにコーナーを駆け抜ける姿は流れるように美しく、電光のように速かった。
 しかし、世界GPはほとんどが初体験のコースばかり。そこでロバーツは、500ccクラスの前に1レース多く経験できるよう、250ccにもエントリー。その周到な作戦が功を奏して、500ccでは第3戦オーストリアから3連勝。さらにシルバーストーンのイギリスGPにも勝って、みごと参戦1年目でチャンピオンを獲得した。
 そして、後に彼自身もっとも印象深いシーズンだと語った1979年を迎える。

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ロバーツがグランプリに持ち込んだ巨大なモーターホームはアメリカンスタイルの象徴ともなった

「マシンをよりよいものにするためヤマハのスタッフと議論を重ね、シーズンが始まる直前、日本の走行テストに参加したんだ。ところがその時、運悪く転倒して背中をケガしてしまった。開幕戦さえ間に合わず、病院で4週間も寝ていたよ。するとヤマハの部長が訪ねてきて、契約書にサインしろと言うんだ。みんな君を待っているとね。あの感動は一生忘れられない。そして4月、オーストリアでカムバックした私に与えられたマシン(0W45)も、じつに素晴らしい仕上がりだった。このレースは絶対負けられないと思った。もちろん勝ったよ! ヤマハは、一人ひとりのスタッフが非常に熱心でプロフェッショナルな仕事をするけれど、その一方人間的な関係もすごく大事にする。そういうチームだから、その後何年も一緒に仕事を続けることができたんだ」
 こうしてケガから回復したロバーツは、バリー・シーンやバージニオ・フェラーリなどグリッドの大半を占めるスズキの包囲網に対し、3連勝を含む5勝を挙げる活躍で、みごと2年連続のチャンピオンに輝いた。

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