コラムvol.12
ヤマハのレース活動50年の歴史をコラムでご覧いただけます。Vol.12「GP500デビューウイン!サーリネンの記憶」
1945年12月、フィンランドのトゥルク出身。レースで名を成したライダーの例に漏れず、幼い頃からレースの熱狂的なファンだったヤーノ・サーリネンは、10代の後半、北欧ならではのアイスレースに熱中。1965年にはフィンランドチャンピオンとなった。往年のGPライダー、ルイス・ヤングは少年期の彼をこう評している。
「パドックで選手やマシンにまとわりついて、時にはうるさく感じることもあったけど、とにかく彼の情熱は大したものだった」
1967年からロードレースに転向したサーリネンの武器は、アイスレースで培った巧みなマシンコントロール。コーナリングでお尻をずらし、肘と膝を突き出す独特のライディングフォームで1970年世界GP250ランキング4位、翌年3位、そして1972年チャンピオンへと一気に駆け上がってきた。
だが、"フライング・フィン"とも呼ばれた積極果敢な走りとは裏腹に、彼の素顔は物静かで知的な好青年だった。ロードレースで活躍する傍ら、地元の大学に通って機械工学を修め、トップの成績で卒業。語学も堪能で、母国語のほか英、仏、独の4ヵ国語を不自由なく操ることができた。
とはいえ、学業とレースの両立は経済的にもかなり苦しく、4つの銀行から200ポンドずつ借りて賄ったという。地元のヤマハインポーター、アーウィドソンの支援を受けたのは、卒業まもない1971年のことだった。その後サーリネンの活躍ぶりは枚挙に暇がないが、もっとも印象深いのは1972年の第12戦、母国フィンランドGPだろう。250ccクラスで同じTD-3改(YZ635)に乗るロドニー・ゴールドやアエルマッキのパゾリーニと白熱したタイトル争いを展開してきた彼は、ここでみごと4勝目を挙げ、初のチャンピオンを決定したのだ。
そして1973年4月22日、ポールリカールサーキットでの世界GP開幕戦。彼は500ccクラスの決勝グリッドにYZR500(0W20)を並べ、静かにスタートの合図を待っていた。初めて世界GP500に挑む彼とヤマハにとって最大のライバルは、500ccで過去15回のタイトルを誇り、王者ジャコモ・アゴスチーニとフィル・リードのコンビで7年連続チャンピオンを狙うMVアグスタだった。
しかし、たったひとつの優勝を争う相手は、チーム内にもいた。前年世界GPに6大会参戦し、開幕戦で250cc優勝と350cc3位を獲得するなど、4つの表彰台を獲得した金谷秀夫である。サーリネンと同じ1945年生まれの彼は、つい1週間前のイモラ200マイルレース(優勝/サーリネン)で転倒。左膝を負傷したにも関わらず、今回の予選で2分18秒5のトップタイムを叩き出し、ポールポジションを獲得していた。
2分19秒3のサーリネンがフロントロー2番手、アゴスチーニとリードは3、4番手からのスタートである。しかし、最初に飛び出したのはサーリネン。膝の不調が押し掛けに影響した金谷はアゴスチーニ、リードに続く4番手となった。
その後、2番手に上がったリードがサーリネンを追うが、2分14秒8のファステストラップを記録して快調に走るサーリネンは、後続との差を徐々に拡大。さらにレース中盤、アゴスチーニの転倒によって3位に浮上した金谷もペースを上げ、リードとの差を詰めていく。
そしてついに、アドバンテージを16秒に広げたサーリネンが初優勝。金谷もリードと2秒差の3位でフィニッシュし、ヤマハは長きにわたる栄光の第一歩を踏み出した。