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コラムvol.11

ヤマハのレース活動50年の歴史をコラムでご覧いただけます。Vol.11「世界GP500初制覇、そして3連覇 並列4気筒YZR500の活躍」

vol.11 1973-79/RR/World Grand Prix 世界GP500初制覇、そして3連覇 並列4気筒YZR500の活躍

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1973年、世界GPに復帰したヤマハファクトリーチームは、開幕戦フランスGPで早くもヤーノ・サーリネンと金谷秀夫が500cc、250cc両クラスの表彰台を独占

 1968年シーズンを最後に、世界GPでのファクトリー活動を休止したヤマハだが、ロードレースへの情熱をすべて封印したわけではなかった。市販レーサーの改良、スペシャルパーツや先行開発モデルの投入によってGP350/250/125クラスの有力ライダーをサポートしながら、新たなチャレンジを取り組んでいた。大排気量2ストロークレーサーの開発である。
 狙いは当時のロードレース最高峰、デイトナ200マイルレースに代表されるフォーミュラ750(F750)と、GP500の2クラス。新しいマシンは、開発効率がよく、技術的な信頼性も確保しやすいという理由から2モデル同時開発され、TR/TDのエンジンを2個並べる発想で700cc/500cc並列4気筒と決まった。
 そして1973年、初代YZR500(0W20)を完成させたヤマハは、新型市販レーサーTZ250をベースとするYZR250(0W17)とともに、2クラス体制で世界GPに復帰した。ライダーは、前年GP250チャンピオンを獲得したヤーノ・サーリネンと1971年全日本251cc以上クラスを制した金谷秀夫。この2人が、そろって驚くべき快進撃を見せた。

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満を持して迎えた'75年、ジャコモ・アゴスチーニはヤマハで最初の500ccチャンピオンとなった

 開幕戦フランスGPでサーリネンが2クラス優勝を飾れば、金谷もMVアグスタのリード、アゴスチーニを相手に500cc3位、250cc2位を獲得。続く第2戦オーストリアGPは両クラスともサーリネン、金谷が1-2フィニッシュ。さらに第3戦西ドイツGPでは250ccクラス3戦連続の1-2フィニッシュを決め、破竹の勢いを見せつけた。
 しかし、その幕切れもあまりに突然だった。第4戦イタリアGP、250ccスタート直後に起きた多重クラッシュでサーリネンが帰らぬ人となり、ヤマハはこの年残るすべてのレースでファクトリーチームの参加を取りやめた。
 そして1974年、ジャコモ・アゴスチーニを獲得したヤマハは、モノクロスサスペンションを追加したYZR500(0W20)とTZ350ベースのYZR350(0W16)を投入し、ファクトリー活動を再開。500ccこそランキング4位にとどまったアゴスチーニだが、350ccでは悠々とチャンピオンを獲得し、その実力を証明した。さらに1975年、フルモデルチェンジしたYZR500(0W23)でアゴスチーニがチャンピオンに返り咲き、金谷秀夫は500cc初勝利を挙げてランキング3位を獲得。さらにジョニー・チェコットも350ccクラスを制し、ヤマハの創立20周年を輝かしく彩った。

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1977年ヤマハファクトリーライダー。左から金谷秀夫、スティーブ・ベイカー、ジョニー・チェコット、高井幾次郎

 だが1976年、ヤマハはオイルショック以降の経営不振を建て直すため、1年間ファクトリー活動を休止。翌1977年には新設計のYZR500(0W35)をチェコットとアゴスチーニ、新加入のスティーブ・ベイカーに託して復帰し、ベーカーがランキング2位と健闘したものの、チャンピオン奪回はならなかった。

 その間、バリー・シーンを擁するスズキが500ccクラスで2連覇。市販レーサーRG500の投入も功を奏し、グリッドを埋め尽くす一大勢力となった。なんとしてもタイトルを奪還したいヤマハの切り札は、YPVS(Yamaha Power Valve System)を装備した新型YZR500(0W35K)であり、アメリカのAMAグランドナショナルチャンピオンを2度奪った"キング"ケニー・ロバーツだった。1978年からヤマハGPチームに加入。1レースごとに経験と自信を深め、独特の"ハングオフ"スタイルで1年目から4勝を挙げた彼は、円熟した完成度と戦闘力を誇る並列4気筒YZR500とともに最強のコンビネーションを確立。1980年まで、3年連続チャンピオンの偉業を成し遂げた。

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