コラムvol.08
ヤマハのレース活動50年の歴史をコラムでご覧いただけます。Vol.8「マン島TT4連覇!125ccクラスでつかんだ栄光」
TT、そう呼び習わされるレースがある。マン島ツーリストトロフィーという名称が正式なのだが、ヨーロッパでは誰もそんな言い方はしない。ましてやイギリス(British)GPなんてもってのほか。あれはシルバーストーンやドニントンパークで行われるグランプリのことで、TTとはまったく別のレースだ。
全長60.725km、高低差約400m。大小さまざまなコーナーやストレートを含む37セクションからなるマウンテンコースは、島をぐるりと巡る一般公道を利用したもので、風光明媚ながら天候は不順。平地で日が射していても、山地に入ると雲のような濃い霧が立ちこめていることも珍しくない。
1976年以降グランプリからは外れているが、世界でもっとも古く過酷なモーターサイクルレースであることに変わりはない。だからこそ人々は、尊敬と親しみを込めて、TTと呼ぶのだ。
ヤマハが世界進出をめざしたとき、最初の目標に掲げたのもTTだった。しかし、伊藤史朗や砂子義一、野口種晴、長谷川弘らが束になって挑んでも、なかなか勝利を挙げられない。250ccクラスで無敵の強さを誇り、1964年、1965年と連続チャンピオンを獲得したフィル・リードとRD56でさえ、なぜかTTだけは勝てなかった。
ところが逆に、それまで1勝も挙げられなかった125ccクラスで、世界GP参戦4シーズン目に記録した初めての優勝、それが1965年のTT(リード&RA97)だった。この1勝をきっかけに、ヤマハ125ccレーサーは快進撃を始める。
翌1966年のTTを制したのは、RA97を駆るビル・アイビー。濃霧によってスタートが3時間も遅れる悪条件のなか、その年すでにスペインとオランダで2勝を挙げている彼はまったく集中力を切らさず、身長160cm、体重55kgの小柄な体を巧みに使い、曲がりくねったマウンテンコースを疾走。時には、160km/hのハイスピードで壁にカウリングを擦りつけながら走るという離れ業を演じ、50名のレーサーの誰よりも速いタイムでゴールに飛び込んだ。
3周172.175kmでトータル69分32秒8、平均時速157.15km/h、ベストラップ158.59km/hはいずれも当時の歴代新記録。こうして、この年125ccランキング2位を獲得した彼は、ついに翌年、12戦8勝という圧倒的な強さで世界チャンピオンとなった。
ちなみにヤマハは、この後1968年までに、125ccクラスで連続4回のトロフィーを獲得しているが、250ccではホンダやスズキが世界GP参戦を休止した1968年の1度きり。なんとも不思議な巡り合わせではないか?