コラムvol.06
ヤマハのレース活動50年の歴史をコラムでご覧いただけます。Vol.6「最後まであきらめない。土壇場でつかんだ初勝利」
1963年以降の3シーズン、世界GP250ccクラスで26戦15勝。さらに個人とメーカーの両部門タイトルを2年連続で制したヤマハRD56は、1960年代のロードレースを代表する名車のひとつである。
こうした栄光の数々は、ヤマハが創業以来こだわり続けた2ストロークエンジンの実力を証明し、開発スタッフばかりでなくヤマハに関わるすべての人たちに大きな感動と自信を与えた。また、それまでの4ストローク時代に終止符を打ち、世界GPが2ストローク中心に移行していくきっかけを作ったという意味でも、RD56が果たした功績は大きい。
しかし、ファクトリーマシンの開発に着手して世界GP初優勝を遂げるまで、ヤマハは足掛け5年を要した。その間、ホンダは1961・1962年に125cc、250ccのダブルチャンピオンを獲得するなど大躍進している。当初から開発に携わり、レースでは自らチームスタッフとして戦ってきた技術者たちにとって、この5年はまさに臥薪嘗胆の日々だった。
それだけに、第1回全日本選手権ロードレースでレッドマンやロブと互角に渡り合うRD56と伊藤史朗の活躍は、スタッフの心を奮い立たせた。さらに翌年のデイトナで、伊藤が250cc初優勝。オープンクラスでもドン・ベスコがノートンのファクトリーマシンを抑えて勝つと、世界GP制覇への期待が一気に膨らんでいく。
そして迎えた'63世界GP第5戦ベルギーGP、舞台となるスパ・フランコルシャンはRD56に有利な高速サーキットだ。マン島TT、オランダGPで連続2位に入った伊藤も、好調を維持している。チーム全員が、今度こそ必ず勝とうと気合いを入れ直した。
ところが走ってみると、ホームストレートでエンジンが息つきし、最高速が伸びない。坂を下って上る高低差と振動でキャブレターフロート室内の油面が安定せず、混合気の濃度がバラついていたのだ。
エンジニアたちは急きょさまざまな対策を講じたが、セッティング変更レベルではどうにもならなかった。考えられる最後の手段は、キャブレターを改造してフロート室を前後に2個並べ、燃料供給の安定をはかること。だが、もう試している時間はない。イチかバチか。
「やるだけやってみようと、一発勝負に賭けたんです。長いレース生活の中でもっとも印象に残る場面でした」と砂子義一は振り返った。
その結果、伊藤が4分27秒7のコースレコードを樹立して優勝。次いで砂子も2位に入り、ヤマハは世界GP初勝利をみごとなワンツーフィニッシュで締めくくった。
後にチーム監督を務めたエンジニアは、自らのレース経験を振り返りながら、こう語っている。
「この時、私は現場にいませんでしたが、似たような状況に何度も直面しました。真心を込めて一生懸命仕事をすれば、必ず期待に応えてくれる。エンジンは生き物だと、つくづくそう思いますよ。だけど不思議なもので、少し怠け心が混じったり気持ちがほかのことに囚われたりしていると、何をやってもうまくいかない。まるで子供を産んで育てているような心境ですね」