コラムvol.05
ヤマハのレース活動50年の歴史をコラムでご覧いただけます。Vol.5「アメリカの夢・デイトナ、栄光への軌跡」
「なんだ、このでっかいサーキットは!」
1961年2月、伊藤史朗とともに初めてデイトナ・インターナショナル・スピードウェイに足を踏み入れた砂子義一は、巨大なバンクを持つ大規模なロードサーキットに圧倒された。しかも、単独開催のローカルイベントとはいえ、デイトナのUS GPはアメリカでもっとも人気の高いレースのひとつ。すべてが想像のレベルを超えていた。
開発中の250ccファクトリーレーサーRD48が間に合わず、市販車YDS-1ベースのエンジンを載せた暫定マシンで出場しなければならなかったが、ヤマハにとってカタリナGP以来の海外レース。直後に世界GPのヨーロッパ遠征も控えており、恥ずかしいレースは絶対にできない。2人は懸命に走り、砂子が5位に入ったが、ブレーキトラブルに見舞われた伊藤は8位に終わった。
「今まで経験したことのないハイスピードなレースで、エンジンパワーはもちろん、サスペンションやブレーキの性能、タイヤやチェーンの耐久性……、どれもまったく通用しませんでした」
悔しさを噛みしめながら帰国した2人は、気持ちを切り替え、待望のファクトリーマシンRD48とRA41(125cc)とともにヨーロッパ遠征へ旅立つ。だが、ここでも思うような結果は残せなかった。
「ヤマハは世界が相手だろうと必ず勝つ。それだけが目標だった」(砂子)から、伊藤が250ccランキング9位に入ったとはいえ、誰も満足などできなかったのだ。それだけに、翌年の欧州遠征が見送られたことはつらかったが、今度こそ勝てるマシンを作る、勝つための実力を磨く充電期間と割り切った。
ところが、1962年秋に鈴鹿サーキット(三重県)が完成するまで、日本には200km/hを超えるレーサーをテストできるコースなどどこにもなかった。そこで最初の頃は、開発スタッフとライダーが数人でひと気のない山中湖畔へマシンを持ち出し、富士山麓の公道を走らせた。福島県内のバス専用道路や名神高速道路の未開通区間を使ったテストでは、砂子や伊藤、野口種晴たちも参加して開発を助けた。
そして迎えた第1回全日本選手権ロードレース。完成したばかりの鈴鹿サーキットに出来たてのRD56(250cc)を持ち込んだ伊藤が、世界GPチャンピオンのレッドマンやロブに次ぐ3位を獲得。確かな手ごたえを得たヤマハは、1963年、再びデイトナへ伊藤とともに2台のRD56を送り込んだ。
その当時、伊藤の心境を、ある雑誌はこう伝えている。
「レーシングライダーの夢は世界のビッグレースに勝つことだ。私はアメリカで、1958年のカタリナGPと1961年のデイトナGPに挑戦したが、どちらも納得のいくレースではなかった。友人たちは速くて勝てるマシンに乗れと奨めてくれたが、私はいっさい耳を貸さず、チームと一緒にがんばってきた。そしてついに今回、苦労を重ねて作り上げたRD56で走ることができる。このマシンを初めて見た選手たちは、あまりの素晴らしさに驚き、ため息をつくばかりだ。みんな、ぜひ乗せてくれと言ってくるが、冗談じゃない。勝ちたいからというだけで、ヤマハを愛してもいない選手に触れさせてたまるものか!」
1.6マイルのコースを46周、激しい闘志と高い集中力で走り抜いた伊藤は、終盤プラグのトラブルでピットインしながら、なお2位グラントに2周差をつける圧勝。「Daytona International Speedway 250」と刻まれた銀色に輝くトロフィーを、涙に濡れた顔で高々と差し上げて見せた。