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ヤマハ発動機株式会社 Revs Your Heart

コラムvol.03

ヤマハのレース活動50年の歴史をコラムでご覧いただけます。Vol.3「世界GP制覇と夢の終焉」

vol.03 1961-68/RR/World Grand Prix 世界GP制覇と夢の終焉

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1961年に世界GP初挑戦を果たしたヤマハは、250ccのRD48(写真)と125ccのRA41を投入

 1958年、初の国際レースとなるカタリナGPで入賞を果たしたヤマハは、次の目標をロードレース世界選手権グランプリ(世界GP)に定めた。浜松研究所内にファクトリーレーサー専任部署を新設し、本格的なGPマシン開発に着手。フローティング式ロータリーディスクバルブや分離給油など新しい技術を取り入れながら、世界で戦える2ストロークマシンの開発に努めた。

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1963マン島TT、RD56を駆る伊藤史朗が2位表彰台を獲得

 そして1961年、伊藤史朗や野口種晴など5人のライダーを擁するヤマハチームは、250cc・並列2気筒のファクトリーマシンRD48と125cc・単気筒のRA41をそろえ、第3戦フランスGPでデビュー。続くマン島TTでは伊藤が250cc・6位に入ったが、出場した5戦の通算成績は250cc・7ポイント、125cc・ノーポイントという結果に終わった。
 それでも、この初挑戦でマシンの改善ポイントやチーム運営のノウハウなど貴重な教訓・経験を得たヤマハは、経営的な問題から翌年の参戦を見送ったものの、マシン開発とチーム力強化に専念。45PSまでパワーアップした250cc・並列2気筒エンジンを新設計のフェザーベッド型フレームに搭載するRD56、いっそう軽量化をはかった125cc・RA55を完成させた。
 特にRD56の仕上がりは素晴らしく、1963年、伊藤がマン島TTとオランダGPで2位表彰台を獲得。さらにベルギーGPでは念願の初優勝を果たした。ヤマハと、不世出の天才ライダーがともに頂点を極めた瞬間である。

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1966日本GP(富士スピードウェイ)250ccクラスで激しいデッドヒートを展開する♯7フィル・リード、♯32長谷川弘(優勝)、♯8ビル・アイビー。アイビーは125ccで優勝、リードは350ccを制した

 これによって自信を深めたヤマハは、ライダーにリードとマイク・ダフを加え、陣容を一新。またRD56の戦闘力アップも怠りなく、1964年シーズンに向けて着々と体制を固めていった。ところが開幕直前、伊藤がマレーシアの国際レースで転倒。重傷を負って戦線離脱を余儀なくされたが、リードとダフがその穴を埋める大活躍。250ccクラス通算6勝を挙げたヤマハは初のメーカーチャンピオンを獲得し、個人5勝をマークしたリードもライダーチャンピオンに輝いた。この勢いは翌年も止まらず、7つの大会でリードとダフがそろって表彰台に上がるなど、250ccクラス通算13戦8勝を達成。2年連続でライダーとメーカーの両タイトルを獲得した。
 しかし1966年になると、250ccクラスではホンダの6気筒マシンが猛威を振るい、様相一変。ヤマハも水冷・V4エンジン搭載のRD05で対抗するが、差を埋めることはできなかった。そこでヤマハは、1967年開幕戦から新設計のV4マシンRD05Aを投入し、ホンダ6気筒マシンと一進一退の白熱した攻防を展開。両社譲らぬ6勝どうし、ライダーポイントもリードとヘイルウッドが50ポイントで並んだまま、緊迫の最終戦・日本GPを迎えた。しかし、勝ったのはホンダのブライアンズ。チャンピオンを争う2人はノーポイントに終わり、リードは優勝回数の差、ヤマハは1ポイント差でタイトルを逃がしてしまった。
 一方、世界GP初挑戦以来なかなか成果に恵まれなかった125ccクラスだが、RA97改良モデル(ロータリーバルブ・並列2気筒エンジンを水冷化)の投入により、1965マン島TTで念願の初勝利を記録。さらに1966年、加入2年目のビル・アイビーが4勝を挙げて躍進のきっかけをつかむと、続く1967シーズンには水冷・V4のRA31を駆って大ブレーク。12戦10勝という圧倒的な強さを見せつけたヤマハとともに、個人8勝を挙げたアイビーは初の125ccクラスチャンピオンとなった。

 しかし、止めどないマシンの多気筒化・ハイパワー化を危惧したFIM(Federation Internationale Motocycliste ※)は、1969年以降50ccを単気筒、1970年から125・250ccを2気筒以下、1974年には350・500ccを4気筒以下に制限。トランスミッションも全クラス6速以下とするなど、大きなレギュレーション変更を打ち出した。これに対し、ホンダとスズキは直ちに1968年から世界GP撤退を表明。その1年後、ヤマハも1959年のGP参戦計画スタート以来10年間継続してきたファクトリー活動を休止し、市販レーサーに後を譲ることとなった。

※1998年、Federation Internationale de Motocyclisme に改称

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