コラムvol.02
ヤマハのレース活動50年の歴史をコラムでご覧いただけます。Vol.2「世界へのトビラを開け!初めての海外レース」
富士登山レース、浅間火山レースへの挑戦でモーターサイクルメーカーとして基盤を築いたヤマハは、いよいよ海外、ロサンゼルスを中心とするアメリカ西海岸のビッグマーケットに注目。得意のレース活動による市場参入の可能性を探りはじめた。
いくつかのレースを候補に挙げ、絞り込んだ結果、最終的に選ばれたのが1958年の第8回カタリナGPである。現地の有力二輪販売店も「西海岸ではもっとも人気が高く、市場への影響力も非常に大きいレースだ」と口をそろえ、それが決め手となった。
カタリナGPは、ロサンゼルスの南方40キロの海上に浮かぶサンタ・カタリナ島で行なわれていた、アメリカ西海岸屈指のモーターサイクルイベント。コースの大部分は急坂、急カーブ、大きな石が転がるダートで構成された極めてハードな山岳レースだ。攻略はけっして簡単ではない。そこでヤマハは、第2回浅間火山レース用に開発した、最初のファクトリーマシンともいうべき2ストローク・2気筒のYDレーサー5台を用意。さらにアップマフラー、アップハンドル、アップステップなどでスクランブラー仕様に改造して、伊藤史朗とアメリカ人ライダー4人に託した。
5月3日、レース当日のサンタ・カタリナ島には地元アメリカのハーレーをはじめ、西ドイツのツンダップ、マイコ、NSU、オーストリアのプフ、イギリスのベロセット、BSAといった世界中の名車と1万5000人の観衆が集結。大規模で国際色豊かなレースをひときわ華やかに盛り上げた。なかでも大きな注目を浴びたのは、日本からやってきたニューカマー、ヤマハとそのライダー伊藤である。初の海外レースで、最後列スタートとなった伊藤は激しい土煙に捲かれ転倒を喫してしまうが、再スタートに救われた。公道を利用したコースは毎年設定が変わるうえ、事前の練習走行もできないため、先行した選手の半数がルートを見失なってしまったのだ。
しかし、そこからが伊藤の真骨頂。再び最後列でスタートし、土煙に視界を奪われながらも大胆にアクセルを開け続け、わずか1周で8番手までジャンプアップ。さらに次のラップで3人のライダーを抜き去る。ひとりだけまったく違うスピードを見せつける伊藤は、観衆の目を釘付けにした。
ところが突然、トップを追う伊藤のマシンがピットに帰ってきた。
「右側の点火プラグがかぶったようだ。急いで交換してくれ!」
大声で叫ぶ伊藤の汗と埃にまみれた顔に、悲壮感や焦りなどの表情はまったく窺えない。勝利をめざし、戦うことを心から楽しむライダーの顔である。
それでも、勝利の女神を振り向かせることはできなかった。慣れない海外の雰囲気、極度の緊張と興奮が、メカニックのミスを誘発した。ひとつは伊藤の注文と逆側のプラグを交換してしまったこと、もうひとつはハイテンションコードを左右差し違えてしまったことだ。エンジンが始動できず、ようやくミスに気づいて作業をやり直し、大急ぎでコースへ送り出したが、伊藤のポジションはすでに13番手まで落ちていた。
スタンドの大歓声を掻き消すように、アクセルをいっぱいに開ける。5周目10番手、6周目8番手、8周目7番手。あきらめることを知らない伊藤は、ついに6位まで浮上したところでチェッカーを受けた。
その豪快でスリリングな走りは、リザルトに関わらず観衆を熱狂させ、もう1度出場すれば優勝だと現地の称賛を浴びた。それでも伊藤は納得できなかった。悔しかった。
「オレたちの力はこんなものじゃない!」
未来は大きく拓けつつあった。