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“アジアの大声援を受け世界を翔けるヒーローの創造”
ヤマハの挑戦(後編)
2017年3月2日
「びっくりしたし、ワクワクもあった。僕らに大きな期待が寄せられているというプレッシャーも感じていた。その中でも、近い未来や人生の目標が見えたことが一番うれしかったし、このチャンスをものにしようという強い気持ちでタイを出発した」
こうして、ピーラポン・ブーンレットとケミン・クボは、「MotoGPライダーになる」という目標を胸に来日。同時に、「MotoGPライダーを育てる」というThai Yamaha Motor Co., Ltd(TYM)の挑戦も始まった。
現在、MotoGPライダーになるには、もちろん例外もあるが、おおよそ既定路線ができている。10代中盤から、MotoGPをオーガナイズするドルナスポーツの各種カップ戦、FIM CEVジュニア世界選手権などで好成績を収め、Moto3やMoto2のチームへ。そこで成績を残し、かつ資質があると認められた者がMotoGPのシートを獲得できるという流れだ。そしてMotoGPでは、「Movistar Yamaha MotoGP」のマーベリック・ビニャーレスに代表されるように、20代前半で戦える実力を備えていることが必要になる。
阿部光雄監督は、「典史(故阿部典史/ノリック)がGPデビューした頃と現在では環境も、その道筋も大きく変わった。でも、典史は18歳で全日本を制し、19歳でGPに行ったわけだから、年齢は今とそう大きくは変わらない。ピーラポン、ケミンは10代中盤なのでゆっくりはしていられないけど、段階を踏む必要はある。ただ、小排気量のレーサーから始めるには時間が足りないから、Moto2をターゲットに、地方選手権のST600を主戦場に修行をスタートさせることとした」
レースをつなぐインターバルに阿部監督は、週6日のトレーニングを二人に用意した。サーキット走行はもちろん、ノリックのライディングの基礎を作ったダート、モタード、モトクロス、そしてトレーニングジムなど、多彩なメニューが並び、阿部監督の意気込みが伝わってくる。
一方で、「タイではこんなにバイクと向き合う時間はありませんでした。一生懸命についていったけど、最初は正直しんどかった。また、友達もいないし、息抜きするにも日本語がわからないので外出もままならず、ホームシックにかかっていました(ピーラポン)」と、日本に来てすぐの状況を話した。
とはいえ、監督は二人の取り組みを評価していた。「ケミンは何においても長続きしなかった。若いこともあるが集中力がなく、すぐに辞めてしまうことが多かったね。ピーラポンは根がまじめで、長く続けられたから成長も早かったし、ARRCの経験もあってケミンを徐々に引き離した。それでケミンに火がつく。するとピーラポンがまたがんばる。互いに刺激し合う良い関係ができた」
ライダーとしての資質に太鼓判を押した阿部監督であるが、普段の二人の様子については「悪ガキだよ(笑)」と言い放つ。「若いからってのはあるけど、礼儀や感謝の心が足りない印象だね。当初は、まわりがなんでもやってくれると勘違いしている部分もあった。そこは僕も話をしたけど、やっぱりTYMがしっかり指導していたね」
TYMは、いつの日かローカルヒーローとしてTYMの顔になる、アジアの若者の憧れになるかもしれない人材として、その人間的成長も重要と考えていたのだ。特に「Yamaha Thailand Racing Team」を率いるティラポン監督は、ことあるごとに彼らと会話を重ねた。「協力したい、助けたい、勝たせたいと思われる魅力、リスペクトされる人間性がなければ、いくら速く走れても将来はないと思ったほうがいい。レースは、メーカーの人間やチームスタッフ、スポンサー、通訳など、みんなが力を合わせて成立する。決して一人でレースはできない。そのことをしっかりと理解してほしい」
こうして二人は、ライダーとして、人間として変化を重ねた。シーズン序盤から地方選手権で勝利を収めるなど確実に自力つけながら、阿部監督、「YAMAHA Thailand Team Norick」のスタッフなどとの絆も深めていった。
そしてシーズン中盤、鈴鹿8時間耐久ロードレースに併催される鈴鹿4時間耐久ロードレースを迎えた。地方選手権から全日本へのステップアップをめざす若手日本人ライダーが多数参戦する力試しにはピッタリのレース。同時に、監督、チームメイト、チームスタッフとの絆も試される最高のステージとなった。
結果だけをみれば、転倒によりリタイアで終わった。しかし、中身は上々だった。ケミンがポジションキープ、タイムの速いピーラポンが勝負し、チームは転倒するまでトップを快走した。「ケミンの調子が良くなかったので、自分がなんとかしなきゃとがんばりすぎたんだ。でも多くの学びがあった。特にチームの大切さは身にしみたし、チームと自分の関係やタイヤのこと、ペースのこと… とにかくレースをどう進めるべきかたくさん考えるきっかけになった」とピーラポン。しかし、その後、怪我を負ったピーラポンは帰国を余儀なくされる。
一方、ケミンは「足を引っ張った」という自覚から、大きな悔しさを感じていた。「順当に成長していたつもりだったから、なおさらでしょうね。でもそれが良い薬になった。ちょうど夏まで積み上げてきたものが血肉となる時期だったし、これで変わるだろうという感触がありました(阿部監督)」
秋。阿部監督の予想通り、ケミンは殻を破った。
主戦場の地方選手権、鈴鹿サーキットのレースで優勝。さらにケミンがシーズンのベストレースとしてあげたツインリンクもてぎの最終戦では、「チャンピオンがかっていたので、プレッシャーがすごくて、直前までバクバクしていました。でも監督とチームみんなと乗り越え、勝ってチャンピオンになれた。MotoGPははるか彼方だけど、大きな一歩になったんだ」と笑う。
シーズンが終わり、阿部監督は来年に向けた決断を迫られていた。「2016年は、プロジェクトの第一段階で、次へのセレクションも兼ねていた。そりゃ悩んだけど、最終判断としてケミンを残すことにした。本人は気付いていないかもしれないが、いろんな可能性を持っている。探究心、チャレンジ精神、柔軟性、そして運もね」
さらに言葉をつなぐ。「ケミンはどんなコースでも、マシンでも、コースアウトを繰り返しながら限界まで走るんだ。典史もそうだったけど、限界に挑む姿勢は重要な気質」。そして、飽きっぽさが消え、今は何事も長く続けられる集中力も身についたという。「完全に楽しめるようになった。走ること、タイムを上げることを」。そして柔軟さ。これは受け入れることや、変えること、である。最後に運。「日本にいる運、怪我をしない運、チャンピオンになる運。これはトップライダーに必須な条件」
阿部監督の決断を受け、ピーラポンはARRC・AP250への再挑戦が決まった。「日本を離れるのは残念だけど、AP250でタイトルをとることに専念するよ。ここからもう一度リスタート。そしてMoto3をめざすつもり!」と意気込んだ。
ケミンは全日本に上がる。参戦クラスも決定した。オリジナルフレームを採用する市販車600ccをベースとするJ-GP2である。これは、数年後のMoto2参戦をターゲットとしているからにほかならない。
「日本に来てすぐは、スキル、フィジカル、思考、すべてが足りなかった。でも、少しずついろんなことを変えていったんだ。例えば体重は10kg減らしたし、チャンピオンもとったしね。今の目標は、アジアで最も成功しているデチャさん。数年後にMoto2にいるためにはデチャさんを超える必要があるから。そして、TYMと阿部さんに感謝の気持ちでいっぱい。2017年も期待に応えるために成長しなきゃ」と、新シーズンへの思いを馳せた。
そして1年を終えた阿部監督は、「忙しかったけど、それ以上に楽しかったね。二人の成長が、活力になったんだ。同時に確信も生まれた。まだ先は長いし、これからもっときつくなるけど、彼らならやれるとね」
TYMの試みは、いつもチャレンジに満ちている。そして当社もまた、TYM、アジア、その他エリアの現地法人との連携を深めながら、彼らの挑戦を支える決意である。
長かったウィンターブレークはまもなく終わり、また新シーズンの幕が上がる。