やまももの木は知っている ヤマハ発動機創立時代のうらばなし
ヤマハ発動機の技術ストーリーをご紹介します。
45品質絶対
後発メーカーであるが故に、生産数でも、コストでも優位にたつことは絶対といってよいほど、不可能に近かった。してみれば当面勝つことのできるものは、数量やコストはある程度無視して商品の品質あるのみといった企業姿勢は強かった。従って、こと品質に関する限り、川上社長の指導理念は厳しく妥協は許さず、追求は飽くことなく続けられていた。
前述の新しく作られた木造バラックの狭い事務所の奥まったところの中央に社長の机がおかれ、ほとんど午後は毎日のようにヤマハ発動機の工場で陣頭指揮をとられたのである。昭和32年(1957年)には工場長、事務長制度の職制が生まれ、工場長を拝命した私はその横に机をおき、数々の指導と教訓を受けたことは、今にして思えば実に貴重な体験であり、大変に幸福だったと思う。
そして社長の机の横には、70×50×30cmくらいの大きな青箱と赤箱が置かれていた。誰も奇異に感じたものであるが、実はこれがクレーム品についての社長の決済、未決済の箱である。クレーム品が届くと、かくすことなく事実を列記した絵符をつけ社長に報告しなければならない。当然、原因の追求と対策が激しい議論の応酬によって始まるわけである。ここで決定をみたものは、間髪を入れずに対策のための分担や実験が展開されていくのである。
さてYD-1の苦情やクレームも個々に対策していたが、この原因は存外に根が深く、姑息な対策だけでは到底解決しそうにもないことが明瞭になってきた。そこで対策しながら安定した製品ができるようになった以前の約3,000台のエンジンについては、スペアエンジンを各支店に配布して、交互にエンジンを載せかえて本社に送りこみ、最終仕様のものに再現して送り返すという大手術を行うこととなった。
当然、費用も莫大であり、その労力も大変なものであったが、「ヤマハを信頼して買ってくれたお客さまに絶対に迷惑をかけてはいけない。こうしたときこそ品質のヤマハに対する信用を得るチャンスであるべきだ」と、品質絶対を主張しつづけている川上社長の決断によって強行されたのである。この改修作業には、工場内に別ラインを作り計画的に実施したので、当初難事業と思われた改修作業も、数力月で完全に終了することができた。現在は法的な義務を以って実行されているリコール制度のはしりともいうべきものであった。
46本日の不良品
整理、整頓、清潔、清掃、の4Sについては、各社、競争でやかましくいわれる時代となったが、ヤマハ発動機の創立時代はこの点についてかなり先行していたと思う。「工場を座敷の上と思え」といったような社長の理念をもとに、かなり徹底した4S運動が行われ、土曜日の帰りがけに全員が一列になって芝生の草むしりをしたことも、そうしたことの一例であった。
ある日、工場を巡視されていた川上社長から、職場の片隅につくねられている不良品の山を指摘されて、大目玉を頂戴してしまった。
「これは何だ」
「不良品です」
「なぜこんなにたまるのか」
「はい、一ヵ月分を集計して統計をとり、原因を調べて対策をとることにしておりまして・・・」
「一ヵ月分の統計だなんてのんびりしたことをいっていてはいけない。毎日毎日の仕事として不良品を退治していけば、こんなに山にならないはずだ。これからは不良品が出たらすぐ誰でも目の届きやすい通路の横におき、毎日処理することを励行すること。そしてその置場には本日の不良品置場と掲示しておきなさい。本日の不良品だよ」
と特に念を押されての指摘を受けたのである。実に品質管理の基本に忠実な考え方であり、日頃我々のやっていることが形式的であり、魂の入っていないものであることに深く反省した次第である。今も工場のいたるところに「本日只今の不良品」置場は見ることができる。そしてこうした活動の中に「只今」不良品が発生していないだろうかといった活動を続けていかなければならないと思う。
47仕事を見直せ
また、こんな事もあった。川上社長を案内して倉庫を歩いているときである。
「あの音は何か」
「現場へ払いだす部品の数を数えている音です」
「なぜ数えなければならないのだ」
「現場から請求された伝票の数に合せるためです」
「君たちはなんと無駄なことをしているのだ。部品を購入して会社に入庫している以上、完成品として出荷したものだけをおさえておけば、会社の中のどこかにあるはずである。それを君たちは組織の壁をつくって、そのやりとりに伝票を使い数えなければならないのだ。もっと仕事の簡素化をはかり、いちいち部品を数えなければならないようなことはやめるように仕事の簡素化について工夫しなさい」
この結果、日本楽器で実施していた、直接材料請求伝票を使っての部品の授受は廃止することとなり、納入させる部品もできる限り10本ごとに束ねさせるとか、ロットの単位ごとに袋入れさせるとかして、合理化が進められたのである。最近は盛んに「目でみる管理」ということがいわれているが、川上社長の工場管理のあり方については、すでにこうした考え方が中心になって指導されていたのであって、ただただ敬服するゆえんである。
48社長の訓え(おしえ)
新しい事業を起こした以上、当然のことながら失敗するわけにいかぬ。そしてやりだしたからには、日頃考えていることを思いきって実行し、ユートピア(理想郷)を実現したい、といった夢を川上社長は常にもち続けておられたように思う。
品質絶対を売るヤマハ、清潔な工場づくり、徹底的にムダを省いた合理化、人間性尊重の固定給制度、金・銀・銅の亀のメダルで奨励する提案制度、会社設備による給食、従業員全員に制服支給、能率向上で残業の廃止、次いで土曜半休制度の採用、年二回の昇給制度、教育の徹底により女子の作業範囲の拡大、販売体制の整備など、日本楽器で実行できないようなことを試験的に、そして積極的に試行されていたのである。
そのほか数え上げればキリがないけれども、中でも少数精鋭の人材育成のためには厳格そのものであった。
昭和33年(1958年)3月10日付で、川上社長から一通の書簡が私あてに届けられた。その内容を原文のままで紹介すると、
「子日く、『先難而後獲可謂仁矣(カタキヲサキニシテ、ウルヲノチニスルハ、ジントイウベシ)』仁は君子以上のもの、徳の至高をいう。先ず困難な問題を解決する意志を持たねば経営は失敗するに決っている。もうひとつ、子夏(注:孔子の高弟)日く、『小人過也必文(ショウジンノアヤマチナリ、カナラズカザル) 』心の狭い、人を使えないような人物が過ちを犯した時は、必ずいい訳をして自分の責任を回避して言葉を飾るものである。毎日毎日、工場で見聞きするところで、見え透いていて見苦しい。このようなことでは永久に人は使えぬ。参考までに、2,400~2,500年前の金石併用時代の人たちに劣らぬよう願います」
この書簡を読んでいくうちに、私の頭は氷つくような衝撃を受けた。あたかも醜い自分の顔を鏡でみるような気がして、我がことながら嫌悪の気持でいっぱいとなってしまった。なるほど考えてみれば、難しいことはすべて後回しにして、いつも自分の給料や地位のことばかり考えた行動しかとれないような情けない男だったのではないだろうか。
また、自分の能力や器量もないのに、やたらうわべだけを飾ろうとしたり、一方、自分が過ちをおかしたときに、自分の非を隠し、その責任を人に転嫁したり、いい訳だけをしようとしたり、社長や上司にはいつも良いことばかりを報告し、自分にとって都合の悪いことは隠そうとしたり、余りにも情ない行動をしている自分の姿に気がついたのである。前非を悔い、この立派な訓えを守ろうとして、それ以来、座右の銘とさせて頂いているが、実行することの難しさは何年たっても変わりない。しかしその訓えはいつまでも守り続けていきたい。
その後、昭和35年(1960年)になって川上社長は、日本楽器およびヤマハ発動機など、規模の拡大、従業員の増大、そして組織の複雑化という趨勢のなかにあって、管理職に対し、より大きな責任と決意を迫ったものに社長訓がある。
社長訓
部課長は仕事の成果について、自分の部下がそのために払った努カエ夫を高く評価して、その功績を一切、部下の功績と認めねばならない。自分の発意でやったことでも部下の功績として賞さなければならない。部下に失敗があったときは自分の注意指示に従わない失敗であっても、一切の失敗は自分の指導の欠けたことによることを理解しなければならない。
以上の通りであるが、管理職にあるものは互いに胸に手をあてて、この訓えに反することはないだろうかと反省してみる必要があると思うので敢て記載した次第である。
49自分の会社は自分で守る
会社の業績も各レースにおける輝かしい戦歴と相まって順調に伸び、昭和32年(1957年)の秋の第二回浅間火山レースでの優勝は前途への希望と勇気を与え、殊にオートバイ100台を連ねて行なった浜松市中の祝賀パレードは益々その意気を燃え上がらせた。
そして昭和34年(1959年)9月には浜北の本社工場にも待望の近代的な事務所が新築された。その事務所へ移ったものの、たった二日で私は日本楽器に戻ることになリ、その後、昌和製作所、北川自動車を経て昭和41年(1966年)に復帰するまで約7年余りの間、ヤマハ発動機本社を離れることになる。その間、ヤマハ発動機では昭和35年より出したモペットのMF-1、およびスクーターSC-1が躓きの一因となり、昭和37年の第15期は無配の会社に転落してしまい、企業として最大のピンチを迎えたのである。
昭和37年、川上社長の要請により、現在の小池社長が日本楽器より転じて業務部長に就任、販売網の建て直しに日夜奔走して再建に大きく貢献し、今日のように事業が拡大してきたことは、周知の通りである。後に常務、専務を経て小池社長の誕生をみたのが昭和49年(1974年)。以来川上会長、小池社長の名コンビでヤマハ発動機の屋台骨を支え、今日までつづいている。しかし小池社長の就任以来、事業拡大への志向の道をたどっている一方、世の風は余りにも冷たすぎることが相継いだ。
昭和46年(1971年)のニクソンショック、次いで昭和48年のオイルショック、インフレ、値上げ、アメリカの在庫増、操業短縮、それがもち直したと思うのも束の間、昭和52年(1977年)以来の円高の攻勢は飽くことなく続き、ヤマハ発動機の利益圧迫は益々つのり、天を恨みたくなるくらいの思いである。
しかしふり返ってみれば、過去、幾多の危機を乗りきってきたものはヤマハ精神そのものであろう。そのヤマハ精神とは社訓の実践であり、創業時代に培った川上社長の意志でもある。またそれを受け継いだ小池社長の絶妙なる統率によって開花しつつあるものと私は信じてやまない。現在の逆境ともいえるこの事態を、我々はむしろ絶好のチャンスとして、真からの体質改善をはかるべきと考えたい。
日頃、私が口にしている言葉に山中鹿之助が出陣に際して詠ったといわれる「七難八苦合わせて賜り候え。憂きことの尚この上に積もれかし、限りある身の力試さん」があるが、この気迫こそ、今、絶対に必要なものではないだろうか。
亡くなられた先代の川上嘉市会長はその著書「事業と経営」の最後に、戦時中から終戦後にいたる苦しい環境の中に立ち上がろうとする意気込みを次のように披瀝(ひれき)している。
「―― 今、吾らは、この大洪水の中に闘いつつある。なんとしても崩れることはできない。力の限り力泳し、他の友達とも励ましあって安全の彼岸に辿りつかねばならない。吾らは失望しない。過去における、あらゆる困難に磨かれた吾らの腕は恐らくこの難泳に堪えるであろう」
小池社長もこの経営理念を確信し、従業員に対しては「自分の会社は自分で守る」の重要性を説き、我々を信頼してこの非常事態に相対している。今こそ我々は小池社長の期待に応え、一致団結して、この難関を突破し、ヤマハ発動機は我らの手によって守らなくてはならない。ヤマハマンよ、自信をもて。我々には難泳に堪える力があるのだ。
50やまももの木は知っている
磐田本館事務所の南側にも一本の立派な「やまももの木」が立っている。この木はもともとこの地にあったものか、浜北工場から移植されたものか調べてみたがはっきりしない。私が気がついたときには、すでに現在の本館敷地に相当する位置に立っていた。しかしこの「やまももの木」は、昭和42年(1967年)10月27日に襲った台風34号によって倒れ、雨で根を洗われたが何より早く起こさせ養生したために枯死を食いとめることができた。その後、本館建築の際に現在の地に移植されたが、思えば不思議な縁(えにし)といわざるを得ない。本社が磐田に移って以来、この「やまももの木」も、現在浜北工場にある創立当時の「やまももの木」の如く風雪に耐え、春夏秋冬、我々を見つめている。それはヤマハの歴史を見つめるが如く、そしてヤマハの発展を永遠に続けと願うが如く。
しかし、「やまももの木」は何も語ってくれない。
(完)
51執筆後記
永い間の御愛読ありがとうございました。また大勢の方々からは、激励のお手紙やお言葉を頂き、かつ資料など提供して頂くなどのご協力に対して、紙上を借りて厚く御礼を申し上げます。
思えばヤマハの歴史が始まろうとする創立当時、苦難を体験し参画させてもらうことができた私としては、次代を背負ってもらうヤマハマンにこれだけは知ってほしいといった年寄りの素朴な感情と燃える使命感が、ここまで筆を走らせてしまいました。その点、御了承を頂ければ筆者の幸甚とするところであります。最後に難局を迎え、社を挙げて非常事態に対応している今日、皆さん方の手によって、ヤマハの歴史に輝かしい1ぺージが加わらんことを念願し、ヤマハ発動機創立時代のうらばなしの拙い筆を納めさせて頂きます。
― 昭和53年(1978年)の風も冷たい師走の日、冬来たりなば、春遠からじの心持ちして ―
杉山 友男
5250年前もそこに。50年後もここに。
2005年6月30日。
本社新館前に1本のやまももの木が植樹された。
まだ手のひらで包み込めるほどの太さしかないこの若木は、
しかしながら、そのほっそりとした幹の内に
創業以前からの当社の記憶を内包している。
1955年2月11日。日本楽器浜名工場(現在の浜北工場)を
ヤマハ製モーターサイクルの第1号機『YA-1』が、
心地よいエンジン音を響かせ、納品先である浜松に向けて出発した。
見守ったのは、正門に並ぶ全従業員約80人。
そして、同工場がヤマハ製モーターサイクル発祥の地となるその以前から、
「建物の両側に十数本並んで立っていた」やまももの木。
それから50年後の2005年6月30日。
本社新館前に1本のやまももの木が植樹された。
何も語らず、ただ、
幾多の物語を見つめ続けてきた浜北の「その木」を接木した若木は、
まだ大人の背丈ほどしかないが、
この間、夏の陽を浴び、秋の冷気を知り、冬の寒さに立ち向かい、
新たな地に深く根をはり、枝を大きく広げる準備を整えている。
50年後の繁りはいかばかりかと思わせる、力強さの片鱗をまとって。
この地で初めて迎える春は、
もうすぐ間近だ。
※ヤマハ発動機が創立50周年を迎えた翌年、2006年2月の社報より