矛盾を引き受け、美意識で線を引く。「自力を楽しむ」登山家・服部文祥が、それでも道具を手に取る理由
道具をできるだけ持たない「サバイバル登山」の実践者が、それでも手にとる道具とは? 自己矛盾のなかにある“道具への美意識”を紐解きます。
道具をできるだけ持たない「サバイバル登山」の実践者が、それでも手にとる道具とは? 自己矛盾のなかにある“道具への美意識”を紐解きます。
オートバイや電動アシスト自転車、ボートなど、モビリティという“道具”を通じて、人々の自由や好奇心を解き放ってきたヤマハ発動機。その根底には、遊びを生み出すための飽くなき探究心がありました。『遊具考』では、さまざまな実践者のもとを訪ね、彼ら彼女らが向き合う“道具”を手がかりに、これからの遊びのヒントを探っていきます。
避けようにも避けきれない量の、道に落ちた桑の実を踏みしめながら、斜面を登った先に、ポツンと現れる木造二階建ての一軒家。縁側のちゃぶ台にMacBookを置き、柔らかい日差しの下、キーボードを叩いていた男性がふと、こちらに目を向けた。服部文祥さん。装備や食糧をできるだけ持たず、長期間単独で山を歩く「サバイバル登山」の提唱者であり、実践者です。
かたわらで気持ちよさそうに寝ているのは、愛犬のナツ。2019年に関東近郊の廃村で古民家を買い取り、服部さんは現在に至るまで、ナツとともに自給自足の生活を送っています。

サバイバル登山にしても廃村での暮らしにしても、服部さんの営みは、道具を知恵や技術に置き換える行為、いわば道具の否定のようにも映ります。しかし、あらゆる道具を否定しているのかと言えば、そうではありません。
「アンフェアな道具」だと言いながらも、生きるために猟銃を手に、獣を撃つ。家を直すためにマキタの電動工具を使い、草だらけの大地に自然農の用地を切り開くのに愛用するのは、ゼノアのエンジン草刈機。極めつきは、下界からの登り降りに使っているというバイクです。雨よけシートの下から現れたのは、なんとヤマハ発動機のバイク「YB-1」。
いくばくかの「自己矛盾」を抱えつつも、服部さんの道具選びには一つの基準があるように見えました。それはすなわち「自力を楽しむ遊び」に寄与する道具か否か、という基準です。
持続的に、創造的に。自力を楽しむ
これはなんなのか、何をしているのかと聞かれたら、一応遊びなのかな。遊びではあるが、でも、それは本気の遊びだ。だって生きることそのものをやっているから。遊びなのか仕事なのかと聞かれたら、本当はそのどっちでもない。「生きてます」って言うしかない。その生きることがお金を稼ぐことにもつながっているし、遊びや趣味にもつながっている。だからもう、人生そのものだよね。
日本ではおそらく多くの人が「仕事がえらくて、遊びはダメなもの」だと考えるよね。仕事だったらなんでも許されるというか。人との約束を破っても「ごめん、仕事だったから」って。仕事ってドタキャンの理由になるの?って思うけど、でも日本では理由になるんだよね。そういう考え方がものすごく引っかかってる。「お金を稼ぐことにつながる、仕事こそが一番地位の高いもの」。そうした価値観をひっくり返したくてやっているところがあるかもしれない。

遊びと道具というのは、俺の人生のかなり核心的なところだよ。まず、ここでの生活はサバイバル登山の延長で辿り着いたものであることは間違いない。じゃあサバイバル登山をなんで始めたかと言ったら、それはフリークライミングなんだよ。フリークライミングは、道具に頼って登ったり、道具で環境をいじって登ったりすることに対するアンチテーゼなんだ。自分の身体だけで登る。それが本来の「登る」ってことだという思想が柱にある。
実際にやってみると、これが本当に面白いんだ。すごく創造的で、奥深い。しかもボルトやハンマーなどの道具で岩を壊さないから、次に来る人も最初の人と同じように登れる。だから持続可能なんだよね。そういう面白さに触れたところから、余計と思われる登山道具を捨てて、基本的なものだけを持って山に入るスタイルに行き着いた。登山道も、人が作った「道具」だから使わない。もちろん山小屋も。それで長く山を旅するっていうのが、サバイバル登山。

でも、仕事がこの世で一番重要と思ってる人たちには、この話になかなか共感してもらえない。
世の中には「効率がすべてだ」と考えている人が多いけれど、その効率の中身は考えていない。それは登山においても同じなんだよ。効率よく山頂に立つことこそがもっとも重要な価値だと考える人が本当に多い。そういう人たちは、俺がやっていることを「有効な手段をわざわざ放棄して、自分に負荷をかけて山登りをしている」「すごく不自然なことをしている」と捉える。でも、そういう批判のほうが俺にとっては不自然なんだよな。だってさ、山を壊して道を作るみたいなことの方が、よっぽど不自然じゃない?自分が持ってる力では本来できないことを、道具を使って無理やりやってるわけだから。
さっきも言ったように、自力で登って創造的に、持続的に楽しむというのがフリークライミングの柱。これをもっとも効率的にやるには、道具を使わなければいいんだよ。だから「お前のやってることは効率が悪い」って批判は、一見正しいようでいて、実は的外れだ。それはあくまで登頂効率の話であって、自力を楽しむ効率は、絶対に俺のやり方の方がいいはずだから。
自力を発揮させてくれる道具か、奪う道具か
そう。フリークライミングは道具を否定するわけだけど、クライミングシューズは履く。手には滑り止めのチョークもつける。「冬の富士山を裸足で登るんですか?」と言われたら、もちろんそんなことはない。それじゃあ登山にならないから。やっぱりアイゼンとピッケル、特にアイゼンが重要だ。
アイゼンってすごいんだよ。自分で作った道具ではないから、自力ではないはずなんだけど、それを履くことで自分の力が引き出されて、自力で冬の富士山にだって登れる。自分の能力を発揮することにすごくプラスに働く、そういうバランスの取れた道具というものがやっぱりある。
刃物もそうだよね。刃物は作り出そうと思ったら、すごく大変だ。金属そのものがエネルギーの塊だし、その先に鍛治仕事も必要だから、それを使った料理は自力とは言えない。けど、あるとないとで、料理が全然違う。基本的な道具というのは、服とか靴もそうだけど、使うことで、より自力を発揮させてくれるところがあるよね。
うーん、何が分けてるんだろうね。でも、過剰なスペックが、その人の自力を奪っているのは間違いない。
移動することだけ考えたら、タイヤが四つもある車はバイクと比べて過剰だが、でも、自転車と比べたらバイクだって過剰だ。自転車はだいぶ自力な気がするけれど、そうは言っても道路がなかったら自転車もそれほど役に立たないし……みたいな感じで、やっぱり道具にもいろいろとレベルがある。
だから、どの道具をどう選んで楽しむかっていうのは、結局のところ、その人が求めていることによる。とか言って丸くまとめちゃったら、話として面白くなくなっちゃうか。
道具と自然環境の関係性を崩すもの
確かにそう考える人もいるね。言っている意味はわかる。わかるが、その理屈は筋が通っているようでいて、実は通っていないように思える。
同じ理屈で、俺が源流でイワナをガンガン釣って、その様子を雑誌に載せたり動画にあげたりすると、「獲りすぎだ」「生態系を壊している」と、ものすごく批判してくる人がいる。でも、俺が行ってるような谷で、イワナがいなくなるなんてことは起こってないよ。昔と違って、源流域の山の中まで来るような釣り師が減ったから、魚はむしろ増えていると感じる。
魚がいなくなってるのは、林道や車道があるようなところ。要するに、たくさんの人が入るから問題が起こるのであって、人間が一匹の動物としてやる行為が自然を壊す、だからやめるべきって考え方はおかしいんだよ。これは極論だけど、自然を壊したくないのであれば、やっぱり最初から道を作らない方がいいんじゃないの?
それをよく思うのは山里に行ったときだね。「山菜採り禁止」とか「きのこ採り禁止」とか書いてある。確かに、敷地に入って勝手なことをする悪い奴らはいるよね。ここにもたまに怪しい車がやってくるから、睨みを利かせてるんだけど。でも、その村に至る車道を作っていなければ、そもそもそんなことにはなってないわけだよね。

とはいえ、道があった方が便利なのは間違いない。村の人からしても、下のスーパーまでもやしを買いに行けて便利だ。でも、そうすると逆に町からも人が入ってきて、村の財産を取られちゃいました、みたいなことも起こる。そういうのは裏表だからさ。つくってしまった以上は、自分たちの便利さは欲しいが、面倒くさい輩が入ってくるのは困るっていうのは違うかなという気もする。
そうじゃないかな。縄文時代にまで遡れば、人間は生態系の中に入り込んでうまく生きていたわけだし。自然に手を加えて、一回バランスが崩れたとしても、すぐに元のバランスに戻っていた。自然には本来、そういう力があるんだよ。でも今はそうはいかない。なぜって、人と家畜が多すぎるから。
今、70〜80億人の人間がいるのは化石燃料のおかげだよ。化石燃料がなかったら、日本の1億2000万人だってまったく維持できない。だから思考実験としてよく考えるんだ。 もし地球に化石燃料がなかったら、どうなっていただろうって。

不思議なもので、化石燃料を燃やさないと、もう農作物も穫れないんだよ。化学肥料を作るのに電気がいるから。窒素を化学的に固定するのに電気の力がものすごく必要だから。他にも流通とか、コンバインとかトラクターとか、ものすごくいろいろなものに化石燃料が使われてる。家畜まで含めると、人間が食べ物から得るエネルギーの10倍の化石燃料を燃やさないと、食べ物が口には入らないらしい。コメだけとってみても、人間が得るエネルギーの半分の石油を燃やさないと、コメはできないんだ。
ってことは、俺たちは化石燃料を食って動いてるロボットみたいなもの。そういうふうに言うこともできるわけだ。
矛盾を引き受け、美意識で線を引く
できるだけ使わないようにしてる。化学肥料や農薬を一切使わない、自然農で野菜を育てるよ。けど、それこそ駅からここまでバイクで上がってきたり、草刈機とかチェンソーを使ったり。炊事や風呂は全部薪だけど、火をつけるのも面倒だから、ガスバーナーでシュッてつけるし。なくてもいいけど、あるものは使ってる。
電動工具は、基本的には太陽光で発電して、それをバッテリーに移してるから、化石燃料の電気は使ってないと言うことはできる。けど、バッテリー自体を作るのにも化石燃料が必要だからね。言い始めたらきりがないけど。

本当のところはエンジンもモーターも使いたくないね。カッコ悪いなって思ってる。だけど、80歳過ぎまで生きるとして、人生あと30年でこの廃村を完成させなきゃと思うと……。一人でやってると、まぁ時間が足りない。その点、草刈機は早いから。
使わなくてもできることはできるだろうね。明治の初めぐらいまでは、化石燃料なんてまったく使ってなかったわけだから。けど、かつての日本に存在した、村的な共同体の相互扶助が立ち消えてしまったいまでは、そこに戻ることはなかなか難しい。ここは本当に一人でやってて、それはすごい自由でさ。でも、化石燃料がなかったら、こんな優雅な一人での暮らしはできないだろうね。
鉄砲もそうだね。すごい道具だよ。自分では絶対に作り出せない。シカもイノシシも、鉄砲をまったく認識してないから、こちらが構えていても、その辺にポーンと立ったままいる。鉄砲はまだ長くて400年、今のライフル銃は250年くらいの歴史だけど、そのぐらいの短いスパンじゃ、獣たちは遺伝子的に対応できないよね。だからもう、使えば使うほど「これ、インチキだな」と思うよね。

さんざん「道具は機能だ」とか「過剰なスペックはいらない」とか言っておきながら、ブランドにも弱いしね。パソコンはApple。カメラはニコン。電動工具はマキタで統一したくなっちゃう。だからまあ、ブレブレですよ。自己矛盾だらけ。
まぁね。自分は原理主義者ってよく言われるし、そうありたいとも思ってるけど、覚悟の上だけにしておかないと、本当に死ぬことになるよ。自分(人間)という存在を消さないと筋が通らなくなるから。でもそうすると本末転倒になるんで。「自力を楽しむ」と言っている、その自分がいなくなっちゃうわけだからさ。
覚悟としては原理主義者でありながら、現実的には自分が思う、カッコ悪くないラインのところでうまいことやってる。だから、これは俺個人の美意識とか、そういう話だよね。
道具も自力を引き出してもらいたがっている
この包丁なんかは、もともとこの家に置いてあったものだよ。もうボロボロだけど、刃物は本当に捨てらんないね。鹿の刺身とかを作るときに使う柳刃も拾ったものだしね。使われていない刃物があると、助けて使ってあげずにはいられない。
研ぐと刃物も喜んでる……っていうのも変だけど、でも、やっぱり刃物だって、刃物として生まれたからには、使ってもらって自分の才能を引き出してほしいよね。日本の「八百万の神」みたいな感じで、道具や動物、世界、あらゆるものに人格を認めて接する方が、間違いなく世界は良くなるってことに、こういう生活を通して気が付いたんだ。
それは自然農にも通じる考え方なんだよね。「語りかけるとよく育つ」みたいなことを言うけどさ。俺はそこまではしないけど、でも俺自身、いろいろなものに人格を認めることを通じて、自分に言い聞かせてるんだと思う。「道具を丁寧に扱えよ」ってさ。

この家もそうだよ。この家は建材を外から運んできていない。大工さんが刃物だけ持ってきて、この辺りにある木を切り出して、製材して、組んでいる。一番古いこの母屋は明治に建てられたもので、釘も使っていないんだ。だからメンテナンスはだいたい自分でできるし、できるように作られてるってこと。直そうと思ったら、その辺から土を持ってきてぐちゃぐちゃっと土壁を作ればいいし、木を切ればいい。
さっきの「自力を発揮させてくれる道具と、自力を奪う道具の違いは何か」って話は、もしかしたらこのメンテナンス性っていうのが、一つのカギになっているのかもしれないね。
その点、YB-1は自分で結構いじれるから、道具として面白いというか、自分の身体の一部になり得る。道具が自分の身体の延長であるかどうかは重要なんじゃないかな。まあ、今の若者にとってはもう、iPhoneも身体の一部かもしれないけど。
そういう意味でアドバイスするなら、自力を楽しんでみることの第一歩は料理だと思うな。で、料理をすることの一部に刃物を研ぐことがあって、研ぐための道具として砥石がある。それは必ずしも買ってこなくてもいいしね。基本的には凝灰岩であれば何でもいいから凝灰岩の石を、マキタのグラインダーで面出ししてやれば砥石になる。そんな天然砥石、ここにもいっぱいあるよ。俺のコレクション、見ていく?
服部 文祥さん/1969年、横浜市生まれ。94年、東京都立大学フランス文学科卒業。山岳雑誌『岳人』編集員。世界第2位の高峰K2(8611m)登頂や剱岳・八ツ峰北面、黒部別山東面の初登攀といった実績をもつ。99年からは長期山行に装備と食料を極力持ち込まず身一つで挑む「サバイバル登山」を実践している。2022年に史上初の積雪単独北海道分水嶺ルート連続踏破を達成し、植村直己冒険賞を受賞。著書に第5回梅棹忠夫・山と探検文学賞を受賞した『ツンドラ・サバイバル』(みすず書房)、第31回三島由紀夫賞候補作『息子と狩猟に』(新潮社)、『山旅犬のナツ』(河出書房新社)『今夜も焚き火をみつめながら サバイバル登山家随想録』(モンベル ブックス)など多数
執筆:鈴木陸夫 撮影:Kohei Kawashima 編集:和田拓也
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