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2024.12.25

「心理学者の私が大学ではなく、企業で研究をする理由」

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研究者として国内外の大学で心理学の研究を行ってきた末神翔さんは、現在、感覚拡張HMI研究を始めとするヤマハ発動機の「人間研究」に携わっています。

「なぜ民間企業であるヤマハ発動機を選んだのか?」
「実際に企業で働いて感じていることとは?」
「未来の研究者たちへのアドバイスは?」

心理学者であり、ヤマハ発動機の社員である末神さんにお話を伺いました。

  • 末神 翔

    技術・研究本部 技術戦略部
    人間研究ストラテジーリード

    2011年、上智大学大学院 総合人間科学研究科心理学専攻 博士後期課程修了。専門は認知心理学。博士(心理学)。オスロ大学心理学部(日本学術振興会海外特別研究員)や長崎大学(特任助教)を経て、2014年にヤマハ発動機に入社。人間研究ストラテジーリードとしてヤマハ発動機の人間研究の戦略立案から研究遂行までを担う。

「企業では、研究成果を製品やサービスに応用していけるのが魅力です」

—— 末神さんが心理学に興味をもったきっかけを教えてください。

心理学者になりたいと思ったのは小学校低学年のころです。映画『ゴーストバスターズ』の主人公のひとりが心理学と超心理学の博士号をもっているという設定なんですが、当時の私は「心理学者は、おばけを捕まえたりするのか!」と衝撃を受け、憧れるようになりました。振り返ると、その時から心理学者を意識するようになっていたと思います。

—— 子どものころに観た映画の影響で、本当に心理学者へ?

はい、大学から大学院修士課程、博士課程まで一貫して、人間が世界を認識する仕組みを科学的に解明する認知心理学を学んできました。特に、言葉が色の認識に与える影響について研究し、心理学の博士号を取得しました。博士課程修了後は、博士研究員として2年半ほどノルウェーのオスロ大学で勤務しました。オスロ大では言葉と認識の関係を脳の機能と結びつけて研究していましたが、実際の生活に近いテーマも同時に研究していました。例えば、ワインボトルのラベルデザインについて、実際に採用された図案とボツ図案を題材に、どちらが人間の注意を効果的に惹きつけたり、魅力を感じさせたりするのかを、アイトラッカー(※)を使って研究したりもしていました。その後、長崎大学医学部の助教になるんですが、そこで民間企業との共同研究も担当しました。

※眼の動きや瞳孔の大きさを計測する機器。視線計測装置ともいわれる。

—— そういった経験があって、ヤマハ発動機に転職したんですね。

大学や研究機関、いわゆるアカデミアの世界では、論文を書くことが仕事で、そこで終わってしまうことが多いんです。一方で、企業の研究では研究成果を製品やサービスに織り込んで世の中に実際に届けることができます。実際に企業と一緒に研究したことで、企業がしっかりと腰を据えて真摯に研究に取り組んでいることもわかりました。これはとてもやりがいがあると思い、心理学が役に立てそうな研究を行っている民間企業を探し始めたんです。
いくつか候補があった中で、ヤマハ発動機に興味をもったのは、独自の開発思想である「人機官能」という言葉がきっかけでした。当時はその意味を詳しく理解していなかったんですが、わからないからこそおもしろそうだなとも思いました。

—— 「わからない」から、入社を決めた!

ある意味では、そうですね(笑)。でも、自分から新しい研究テーマを提案して挑戦していけそうだと感じたから応募しました。予め決められたテーマの一部を担うよりも、自分で考えた新しいテーマを仲間と共に試行錯誤しながら挑戦していきたいと思っていました。そういう意味では、入社前に抱いていたイメージ通りの会社でしたので、分かっていて入社を決めたともいえますね。

「やりたいことを行動に移すべき。そんな風土がここにはあります」

—— 入社後、どのような研究に携わってきたのか、教えてください。

入社以来、現在まで、私が携わっているのが、このWebサイトのタイトルにもなっている「人間研究」です。その大きな枠の中、さまざまな研究テーマに多様なアプローチで迫っています。
そもそもヤマハ発動機の「人間研究」は、人間をリスペクトし、人間を大切に思うことが根底にあります。企業によっては「どうすれば人からお金をかき集められるか?」といった、人間をリスペクトしているとはいい難い視点から研究に取り組むこともあるかもしれませんが、ヤマハ発動機は、本当に人を幸せにしたい、人の可能性を広げたいという大前提が共有できている会社だと思います。これは私が実際に社内で研究を行う中で日々感じていることですし、私自身がヤマハ発動機という会社に共感している点です。人間の心を扱う心理学の専門知識やスキルは、それを何に使うのかがとても重要です。誇りをもって自分の専門知識やスキルを活かせる今の環境は、研究者としても、ひとりの人間としても、とても大切に感じています。

—— 大学での研究とヤマハ発動機での研究、末神さんはその違いをどう捉えていますか?

大学の研究室ではそのチャンスが少なかったのですが、ヤマハ発動機では心理学以外にも、社会学や文化人類学などさまざまな領域の研究に携わることができます。また、エンジニアやデザイナーといったさまざまなスキルや専門的知識をもったメンバーと一緒に仕事をしていきます。そして、何よりも社会や実生活との接点が圧倒的に多い。世界中の人々の生活、どういう思いで生きているのか、どんな課題を抱えているのか。それらを肌感覚として捉えて研究テーマに織り込むことができるので、本当に有意義な研究に携わることができていると実感しています。
社内の雰囲気も、企業で働いたことのない私が入社前に抱いていた“サラリーマン”のステレオタイプとはかけ離れたものでした。やりたいことや意思を尊重する文化が強く、自分でやりたいことを行動に移すべきという風土があるので、高いモチベーションをもって研究することができています。研究チーム以外でも、とにかく情熱をもって仕事をされている人が多い印象で、「どうでもいい」とか「仕事に興味ない」みたいなスタンスの人は少ないですね。それだけに、たまに意見がぶつかったり、ディスカッションが白熱したりといったこともありますが、だからこそ良い成果が得られるのだと思います。

—— そんな環境のもと、末神さんがご自身の研究で心がけていることはありますか?

当たり前を疑ってかかることですね。常識や慣習を疑うのはもちろんですが、自分が今まさに体験している感覚を疑うことすら必要です。「今見ているものは、なぜそのように見えているのか?」というように、当たり前すぎて意識すらできないことに疑問を見出すことが、偉大な研究の原点になることは多々あります。
ヤマハ発動機は技術力が高く、技術者が多い会社です。その中で技術者ではない私のような人間が、エンジニアリングの視点ではなく人間の視点でHMI(Human Machine Interface)や機械などを捉え直すことが、新たな発見に繋がると思います。エンジニアリングとしては合理的でも、人間にとっては合理的ではない可能性もあるからです。また、その逆も然りで、人間研究を進める上で、エンジニアやデザイナーなど視点の異なるメンバーとの会話が新しい気づきや発見に繋がります。

—— 専門の心理学以外の知識や視点も必要になりそうですね。

私の専門は認知心理学ですが、進化心理学、哲学、社会学といった関連領域についても常に勉強をするようにしています。例えば進化心理学では「そもそも人間の目はなぜ前についているのか」といった生物学的な特性だけでなく、他人の心がわかったり感情をもっていたりという心理学的な特性も含めて、現代の人間には進化の過程で淘汰されながら生存に有利な特性が受け継がれていると考えます。このようなレベルにまで「なぜ?」という疑問をもつことで、人間にとって本質的な意味をもつ研究ができると考えています。
また、エンジニアやデザイナーから色々な知識やノウハウを学ぶことも常に心掛けています。研究には異なる知識やスキルをもつ仲間との会話が不可欠ですが、共通言語を増やすほど会話がうまくいく確率は高くなります。何より、自分が知らない知識やノウハウを教えてもらえるのは、純粋におもしろいですし。

「“気配”の正体を探ると、“音”にたどり着いたんです」

—— 現在、末神さんは感覚拡張HMI研究、つまり、音に着目した認知支援技術の研究を行っているそうですが、なぜ“音”なのでしょうか?

研究の起点となったのは、「人間が日常的に感じとっている気配のように運転状況や周囲の環境を直観的に捉えられれば、より安全かつ負担のない運転ができるのでは?」という発想でした。
この“気配”というものを科学的に解明し、周囲の環境を直観的に認識させてあげる技術にしていくことが私たちの研究のゴールです。その過程で、先ほど紹介した進化心理学的な視点も取り入れて、「人間はどう気配を感じているんだろう?」というところをヒモ解いていった結果、後ろから接近してくるものを気配で察知できるのは、普段意識していないような音が手がかりになっているのではないか、という仮説にたどり着いたんです。

—— 確かに、見えない部分の気配を感じられれば、運転時の危険の察知に役立ちますね。

ええ、視覚的に捉えられない部分をいかに認識するかということは、危険回避という意味で非常に重要です。運転には、認知、判断、操作という三つのプロセスがあるのですが、個人的には判断の部分は人間が担うべきだと考えています。判断を機械に委ねてしまうと、運転する楽しみ、悦び、主体感みたいなものがなくなってしまいますから。では、人間が最も効果的に判断を下すためにはどうしたらよいか?それには、認知の部分を強化するのが一番効率的だと思うんです。そして、認知プロセスを効率化するためには、人間にとって自然で違和感のない直観的で感覚的な手段が最適です。よって、視覚的に捉えられない部分を、いかに直観的で自然に認知させてあげるかが、この研究のポイントです。
そもそも見えないものって、見えないことに理由があるはずなんです。先ほどの進化の話ですが、もし真後ろのものを視覚で捉えることが人間にとって決定的に重要なら、人間の眼はシマウマみたいに横についていて360°に近い視野を確保しているはずなんです。ところが眼は横にはついていない。そう考えると「見えない範囲のものを見えるようにする」という今の基本的な発想は、人間にとっては必ずしも最適ではないように感じるわけです。「本当に人間にとってベストなのか?」という問い、疑いですね。

—— 現在、研究はどこまで進んでいるんでしょうか?

実際に目で見えない部分を音で察知することを体感できるようなデバイスやシミュレーターを作りました。今後はこの技術の実装に向けた取り組みを進める段階に入っています。例えば、技術を搭載するのがモーターサイクルなのか車椅子なのかで開発の方向性は大きく変わってきます。そのためのディスカッションを社内外で行っているところです。

—— 長期的なプロジェクトの中で、やりがいやご自身の成長についてはどう感じていますか?

設計、デザイン、商品企画、営業などなど、大学ではおそらく交わらなかったであろうさまざまな仲間、そして実際のお客さまとの出会いは、研究者としても、ひとりの人間としても、私にとって大きな学びと成長の機会となっています。また、ヤマハ発動機はグローバルに展開している企業ですから、経済格差や人種差別といった本当に根深い人類全体の問題に直面することもあります。人々の生活や社会のリアルな課題を研究テーマに織り込み、その研究の成果を商品やサービスを通して少しでも人々の生活や社会に還元する。人類がほんの少しでも今より良くなるために自分の研究が役立つかもしれないという期待は、大学で研究していた時よりも今の方が強く感じられます。とある海外拠点が私たちの研究成果を紹介しながら「ヤマハ発動機はモーターサイクルを売る会社ではない。感動を売る会社なんだ」といってくれたことがあります。そういう企業風土だからこそ、人や社会に接続した研究ができるし、研究成果を人や社会に還元できるように感じます。

「今、人文社会科学が役立つフィールドが広がっています」

—— 最後に、末神さんと同様に研究者をめざす方々、また、企業で働きたいと思っている方々へアドバイスをお願いします。

心理学に限らず、いわゆる文系領域、人文科学や社会科学を学んだ方々が研究職に就く選択肢は非常に少ないのが日本の現状です。しかし、少しずつですが流れは変わりつつあります。実は、機能や数字を解釈して意味をもたせる人文科学や社会科学の力は、今の日本企業に必要な力だと感じています。ご自身もあまり気づいていないかもしれませんが、AIや自動化が進む今こそ、人間とは何かを洞察する力、あるいは人類の歴史や文化を読み解く力が重要になってきます。今年(2024年)のノーベル物理学賞や化学賞の受賞者に認知心理学や認知神経科学をバックグラウンドにもつ研究者が複数いたように、人文社会科学の知識や考え方が役立つフィールドは確実に広がっています。曖昧で抽象的であることはデメリットでもありますが、本質を捉えることでさまざまなことに応用できるというメリットでもあります。問題はデメリット自体ではなく、デメリットを補うために多様なバックグラウンドをもつ仲間と協力する環境に恵まれないことです。そのためにも、ぜひ専門性に固執せず、一見関係ないような他分野にも積極的に触れてみることをお勧めします。
大学では他の学科の人たちと気軽に交流する機会がありますが、社会に出るとそうした機会は減ってしまいます。大学という場所は学ぼうと思えば他の領域にもアクセスできる貴重な環境です。もちろん学生のうちに全部吸収することは無理ですが、そのアンテナの広げ方が、10年後、20年後のご自身の人生や仕事の幅を拡げてくれると思います。

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