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55mph - Roots. Vol.03

ヤマハ TRACER9 GTで走る、河西啓介と桐島ローランドによる四国・高知6日間のツーリング旅紀行です。

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Vol.3 高知で出会った美しい風景。僕らのルーツ。

ウィルスの脅威に晒された閉塞感の中で、誰もが渇望する “自由な移動”への思い。その長いトンネルの先にかすかな光が見え始めたいま、僕らはモーターサイクルで旅を試みる。東京から四国・高知を往復するグランドツーリング。それは不自由な暮らしのなかで見失いそうになる、自分たちの“原点”を確認する旅でもあった。

徳島から高知、土佐へ

東京から高知県・土佐まで、4台のモーターサイクルで往復2000km余りを走る旅。出発してから2日目の夕方、僕らは徳島から高知に向けて走っていた。この日は京都から土佐まで400kmほどの道のり。日暮れまでに宿に着ければいいと思っていたのだが、淡路島を経由して四国に入り、立ち寄った徳島県美馬市の「うだつの町並み」が想像以上に素晴らしく、すっかり長居をしてしまった( ▶55mph - Roots. Vol.2)。ここから今夜の宿まではまだ150km近くある。慌てて徳島自動車道、四国横断自動車道、高知自動車道と高速道路を乗り継ぎ、ひたすら宿を目指すが、すでに陽はとっぷりと暮れ、気温も下がっていく。

四国には何度も来ているが、僕自身、じつは高知県を訪れるのは初めてだった。ゆえに距離感が掴めていなかったこともあるが、こうして走ってみると、四国は広いなと実感する。とりわけ四国の南部を弓なりにカバーしている高知県は四県中もっとも面積が広い。車体のバンク角を検知して進行方向を照らしてくれるコーナリングランプ、標準装備されるグリップウォーマーにも助けられながら2時間ほど走り続け、ようやく土佐湾に面した宿に到着した。

宿に着いて荷物を解くと、すでに夕食の支度ができていた。土佐といえばやはり“鰹”だ。新鮮な鰹の造り、たたき、そして海老や新鮮な海鮮の料理。旅の疲れを癒やしてくれるのはやはりその土地の“味”なのだ。食事の後は源泉かけ流しの温泉に浸かり、明日の高知の海山をめぐるツーリングに思いを馳せた。

ルーツとなった場所、中村

翌朝も快晴だった。部屋の窓から朝陽を反射してキラキラと輝く海が見える。今日、我々が目指すのは、ここから西に100kmほど走った、高知県西部に位置する中村という町だ。この中村こそ今回の旅の目的地でもあった。ローリー(桐島ローランド)の母方の祖先がかつてこの地に住む武士だったと聞き、その地を訪ねてみようと話したのがきっかけとなった。ローリーも僕も50代になり、自分自身そして日本人の歴史や原点を辿ってみたい、と思う気持ちが強くなった。今回はローリーのルーツをめぐる旅にその思いを重ねたのだ。

中村は戦国時代に土佐一条氏の城下町として発展し、碁盤の目状に整備された町並みから“土佐の小京都”と呼ばれたという。その後、長宗我部氏、山内氏へと支配が移り、江戸時代は土佐藩へと組み入れられたが、以降も長く高知県西部の中心都市として栄えてきた場所だ。ローリーの祖先は長くこの地に暮らし、土佐藩出身で三菱財閥の創業者である岩崎弥太郎とも縁があったという。

宿から西へ向かう道は、複雑に入り組んだリアス式海岸の地形に沿って、小さなカーブがいくつも連続する。前後17インチホイールを履くTRACER9 GTは、まるでコンパクトなスポーツバイクのような軽い身のこなしで駆け抜ける。こういうシーンではシフトアップ&ダウン時に有効なクイックシフターがものをいう。クラッチレバーを操作しなくても、シフトペダルの動きをセンサーが検知し、瞬時にトルクをキャンセルしてフト操作を助けるのだ。加えてシフトダウン時には上手く回転を合わせてくれるので、まるで運転が上手くなったかのように気持ちよく走ることができる。

一般道と高速道路を2時間ほど走り、中村に到着。かつての中村市は、2005年に隣接する西土佐村と合併し「四万十市」となった。その地名通り“日本最後の清流”と言われる四万十川の下流に位置し、川が運んだ堆積物により形成された平野に人が住み着いたのがこの地の始まりと言われる。町並みを一望できる丘陵には、戦国大名により築城され、江戸幕府の一国一城令により廃城となるまでこの地を見守った中村城跡がある。現在は天守を模した建物の中が四万十市立郷土資料館となっている。

僕らは資料館の展望デッキに上り、かつての城下町を眺めた。西には四万十川、東にはその支流の後川を望み、その間の平野に町並みが広がる。ここで何百年も前から(あるいはもっと前から)人々が営みを続け、そこでローリーの祖先も暮らしていた。いまは遠く離れた東京に居ても、そのルーツはここにあったと思うと、僕自身のことではないが、なんだか感慨深いものがある。もちろん僕にも、そしてこの旅を共にしているレイナにもタニャにも、それぞれのルーツとなる場所があるのだ

最後の清流、四万十川と沈下橋

四国の南に位置する高知県は“海”のイメージが強い。だが実際は面積の約9割が山地で、山地率では全国1位というほどの“山の国”だ。その地形が四万十川を始めとする多くの河川を育み、豊かな自然環境を生んでいる。そして、それゆえに雄大な自然の中を駆け抜けるワインディングロードの宝庫でもあり、高知はライダーにとって憧れの土地でもある。

僕らは四万十川沿いを上流に向けて走ることにした。それは高知への旅に出かけるにあたり、レイナとタニャからのリクエストを叶えるためでもあった。「沈下橋を渡ってみたい」、というのが二人の希望だった。沈下橋とは川が増水したときに水面下に沈むように造られた橋で、その際に流木や土砂が引っかかり橋が壊れたり水が堰き止められることのないよう欄干(らんかん)がないのが特徴だ。かつて架橋技術が未熟だった時代、増水時に壊れない橋を造ることが難しかったため、あえて沈没する高さに簡易的な橋を造ったというもの。技術の進歩とともに強度の高い橋に架替えられ徐々に姿を消しつつあるが、四万十川には支流も含め今も47の沈下橋が文化的景観として残されている。

四万十川にかかる沈下橋は今も生活道路として役目を果たしているが、観光的な視点で見ればとても貴重でありレトロな風情が感じられる。今ふうに言えば間違いなく“映える”スポットでもある。沈下橋をバイクで渡りたい、できればそこで写真を撮りたい、という意見には僕もローリーももちろん賛成だった。

四万十川に沿って上っていく道は、想像どおりの美しいワインディングロードだった。川沿いには集落が点在し、人々の暮らしの導線となる沈下橋がかかっている。このまま全長196kmにおよぶ四万十川の源流まで走ってみたいという思いにもかられたが、残念ながらそれには時間が足りなかった。僕らは四万十川の中流に架かる長生沈下橋を渡った。昭和35年に架設された橋で、全長は120mある。幅員は2.8mだからバイクで渡るのには十分な幅だが、とはいえ欄干のない橋を行くのはとてもドキドキする。僕らは橋の上で念願の撮影し、ふたたび土佐に向かって折り返した。

この旅もすでに3日が過ぎた。高知で行きたい場所、見たいものはまだたくさんあるが、そろそろ帰途へとつかなければならない。4日目の朝、高知に来たからにはここだけは立ち寄っておきたいと、桂浜に建つ坂本龍馬像に挨拶をして、我々4人と4台は東へと向かったのだった。

桐島ローランド

1968年生まれ。ニューヨーク大学芸術学部写真科を卒業しフォトグラファーに。雑誌および広告写真などを中心に活躍する。現在はCyberHuman Productionsのテクニカルアドバイザー。学生時代からバイクに親しみ、オン/オフ問わずレースにも出場。2007年ダカール・ラリーに出場し完走を果たす。

河西啓介

1967年生まれ。早稲田大学卒業後、 広告代理店勤務を経て自動車雑誌『NAVI』編集部員に。オートバイ雑誌『MOTO NAVI』、『NAVI CARS』などを創刊し編集長をつとめる。現在はフリーランスのモータージャーナリスト、編集者、プロデューサーとして活動する。

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