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コラムvol.14

ヤマハのレース活動50年の歴史をコラムでご覧いただけます。Vol.14「GP4年目の矜恃。金谷500cc初優勝」

vol.14 1975/RR/World Grand Prix GP4年目の矜恃。金谷500cc初優勝

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ザルツブルクで初めてGP500を制した金谷秀夫は、チームメイトのジャコモ・アゴスチーニがホッケンハイム、イモラと連勝し調子を上げてくると、マシン開発を優先するチームの要請に応えて帰国。タイトルはアゴスチーニのものとなったが、すでに45ポイントを獲得していた金谷も堂々のランキング3位に入った

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開幕戦フランスGP、金谷はファステストラップを記録する走りでアゴスチーニに迫ったが……

 1975年5月、オーストリアのザルツブルクリンク。表彰台を取り囲む輪のなかで、ヤマハスタッフはみんな一様に涙で顔をクシャクシャにしていた。
 表彰台の真ん中で両手をかざす金谷秀夫は、久しぶりに屈託なく笑っていた。350ccに続いて、1日2度目の優勝。しかも今度は、彼自身ばかりでなく日本選手としても初の快挙、GP500優勝である。


 金谷がヤマハで世界GP挑戦(最初はカワサキで1967年日本GP125ccクラスに参戦し3位)の機会を得たのは1972年。シリーズ半ば、ベルギーまでの参戦だったが、開幕戦250ccクラス優勝などの活躍が認められ、ヤーノ・サーリネンとともに、翌年500ccに初参戦するヤマハファクトリーチームのレギュラーライダーを射止めた。
 だが、チームメイトがジャコモ・アゴスチーニに代わった1974年、金谷はデイトナ200マイルで転倒し、シーズンを棒に振る。さらに、幸先よくデイトナ200を制したアゴスチーニも、世界GPシーズン後半のスウェーデンGPで他車のアクシデントに巻き込まれて負傷。フィル・リードの逆転を許し、目前の500ccチャンピオンを逃してしまった。
 このことが、金谷にも大きな転機をもたらすことになる。
「インポーターチームやプライベーターの活躍もあって、500ccのメーカータイトルはヤマハが取ったけれど、ライダーチャンピオンを取れなくては意味がない。1975年こそ万難を排して勝ちに行け!」。それはチームに課された会社からの至上命令だった。
 となると、チャンピオンを狙うエースは2人もいらない。実績のあるアゴスチーニを最優先。金谷はセカンドライダーとしてサポートに回り、もっとマシンの開発に力を注げ。そういうチームオーダーが下された。


 だが、金谷にも意地があった。おとなしく仕事だけをこなす気はない。開幕戦フランスGP500ccクラスで、優勝こそアゴスチーニに譲ったものの、2分23秒80のファステストラップを叩き出した金谷は、わずか0.5秒差の2位。そしてこの第2戦オーストリアGPも、500cc予選はアゴスチーニに続く2番手。350cc予選では逆にアゴスチーニを抑え、トップタイムを叩き出す。チャンスさえあれば勝てる、というパフォーマンスだった。
 すると、チャンスは思いがけなくやってきた。350cc決勝で、アゴスチーニのマシントラブルが発生。スタートからトップを守った金谷が優勝を飾った。
 ところが500cc決勝、金谷とアゴスチーニはそろってスタートミス。350ccのレース中、コースにまだ雨で濡れた箇所が残っていることを知っていた金谷は、慌てずじっくり追いかけようと考えたが、アゴスチーニは違った。ほかの選手が慎重になっている時こそ、一気にトップを奪い返すチャンスだと判断。イン側に連なる集団を、外からまとめてごぼう抜きしていく。
 その大胆さに舌を巻いた金谷だが、ここで遅れるわけにはいかない。2周目の第1コーナーでイン側ガードレールぎりぎりに飛び込み、ヘルメットを擦りつけんばかりのライディングで2位集団をパス。勢い余って先頭のアゴスチーニまで追い抜くほどの走りを見せた。
 こうして2人は、チームオーダーどおりの1-2体制を保ったまま、後続を引き離していく。しかし、誰もが開幕戦の再現を確信しはじめた時、アゴスチーニがまたもスローダウン! 残る周回をひとりで淡々と走りきった金谷は、少し照れたような表情を浮かべながら、最後の直線で片手を天に突き上げた。

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