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コラムvol.10

ヤマハのレース活動50年の歴史をコラムでご覧いただけます。Vol.10「”2ストロークのヤマハ”を印象づけた 市販レーサーの伝説」

vol.10 1960-69/RR/Technology ”2ストロークのヤマハ”を印象づけた 市販レーサーの伝説

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1969年発売のTD-2。RD05Aゆずりの仕様が数多く織り込まれ、当時の4ストロークファクトリーマシンさえ凌駕するパフォーマンスを発揮した

 1959年、ヤマハは世界GP参戦をめざすファクトリーマシンの開発に着手する一方、富士登山レースや浅間火山レースから発展した日本国内のレースにも積極的に関わり続けていた。
 当初のマシンは、それまでと同様、250ccの市販車YD-1やYDS-1をベースとする改造レーサーだったが、1961年に最初のファクトリーレーサーRA41(125cc)、RD48(250cc)が完成すると、その技術をフィードバックした2つのスポーツモデルの開発が平行進行でスタートする。ひとつは一般公道向けスポーツモデルYDS-2、そしてもうひとつがアマチュアレースに出場するライダーを狙った市販レーサーTD-1である。
 赤いタンクが印象的なTD-1は、ダブルクレードルフレームにYDS-2と同じ2ストローク・空冷・2気筒エンジンを搭載。さらにレース専用シリンダーやシリンダーヘッド、キャブレター、マフラーなどが標準で組み込まれ、そのままレース出場可能な高性能マシンに仕上がっていた。
 1962年春から海外向けに先行販売したところ、TD-1の評価は予想以上に高く、マレーシアGPで現地のライダーが優勝を飾るなど大活躍。同年7月には、第5回全日本モーターサイクルクラブマンレース(福岡・雁ノ巣基地)で三橋実がTD-1の国内デビューウィンを達成。さらに11月、2日間でおよそ30万人の観客を集めたという第1回全日本ロードレース(鈴鹿サーキット)にも参戦し、TD-1に乗る三橋と片山義美がノービス250ccクラスで1-2フィニッシュを飾った。
 ところが当時、国内レースを統括するMFJ(現・日本モーターサイクルスポーツ協会)の規則では、使用車両が公道用市販車に限られており※1、国内向けにはヘッドライトやテールランプ、ウインカーを標準装備したモデルが発売された。
 同時に、カウリングなどレース用キットパーツを組み込んだ完成車TD-1Aも設定され、海外各国のロードレース振興に貢献。やがてTD-1B、TD-1Cへと進化し、アメリカのデイトナ100マイル・250グランプリで無敵の強さを発揮※2。TDシリーズの人気を不動のものとした。
 一方、世界GPでは、1969年から順次エンジン気筒数と変速機段数が制限されることになり、多気筒・多段の高性能マシン開発に注力してきた日本のファクトリーチームは相次いで活動を休止。ヤマハも例外ではなかったが、代わりにTD-1の後継モデルTD-2/TR-2(350cc)を発売し、残されたプライベートライダーたちを支援した。

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スウェーデンチャンピオンを経て、世界GP125/250の2クラスで活躍したケント・アンダーソン。1973・74年には水冷化したYZR125(0W15)に乗り、GP125を連覇

 その性能はファクトリーマシンにも肩を並べるほどで、スウェーデンのライダー、ケント・アンダーソンは1969年GP250で2度の優勝を獲得。ベネリの4気筒ファクトリーマシンに乗るキャラザースと最終戦まで競り合い、ランキング2位に食い込んだ。そして翌年、ロドニー・ゴールドがGP250チャンピオンを獲得。TD/TRシリーズは瞬く間にユーザー層を拡大し、1973年に新シリーズTZ350/250とTA125が登場すると、すっかり世界GPの主力マシンとして定着した。
 世界中のモータサイクルファンに"2ストロークのヤマハ"を印象づけた、今なお語り継がれる伝説の一端である。

※1 1972年からレース専用マシン解禁
※2 1965年から1977年までヤマハ市販レーサーTD/TZシリーズが13連勝を記録

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