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ものづくりの風土

工業製品に、工芸のぬくもりを感じるわけ

ヤマハ発動機の製造・生産現場には、理論値生産という考え方が隅々にまで浸透している。
理論値生産とは、ものづくりに関わるすべての作業を「価値」と「無価値」に分類し、限りなく「価値」作業の比率を高めながら効率化を追求するとともに、現場発信でものづくりを革新していくブレークスルー手法。
その一方で、会社創立以来、非合理なひと手間が淘汰されることなく伝承されてきた背景には、ヤマハ発動機のルーツが深く関わっている。

ものづくりの
文化が
堆積する土壌

ヤマハブランド発祥の地・静岡県西部地域は、さまざまな産業の集積地として孤高の歴史を歩み、独自のものづくり文化を育んできた。この地域では、古くから綿花栽培が盛んに行われており、やがてその特産品を用いて繊維産業が興り、隣接地域では自動織機も生み出された。さらに自動織機の開発・製造過程で機械加工技術が集積され、その技術はやがて自動車製造へとつながってゆく。

一方、北部の山間部には天竜杉と呼ばれる美林がひろがり、林業とともに製材・加工技術が発展した。加工のための木工機械の進化は楽器産業の勃興を後押しし、楽器製造の過程で金属加工技術も培われていった。

穏やかな気候がもたらす自然の恵みによって特産品を栽培し、加工を施す。また加工のために必要な道具までを地域内で生み出してゆき、それらを転用して新たな産業を創出する。革新とスピンアウトを繰り返す独自のものづくりの文化。その原動力には、この地域で育まれてきた伝統的な気風、「やってやろうじゃないか!」の意味を持つ《やらまいか精神》があった。

ルーツは楽器
繊細、そして
工芸的

「楽器屋がオートバイをつくったって? じゃあ、ドレミファとでも鳴るのかい?」
ヤマハ発動機は、1955年7月1日、日本楽器製造株式会社(現・ヤマハ株式会社)から二輪車部門を分離・独立して創立した。その第1号製品「YA-1」を販売するために汗を流した営業マンは、全国の販売店でずいぶん苦労をしたらしい。

もちろん、製造の現場にも大きな苦労があった。ピアノフレームの鋳造技術を応用して試作した最初のシリンダーは、「まるで土瓶のよう」「鉄のかたまり」と揶揄を受けた。しかし製造技術者たちは試行錯誤の末に、当時としては極めて高精度な鋳造技術を獲得。「YA-1」の美しいエンジンシリンダーを完成させている。

一方で、楽器メーカーをルーツに持つ新生二輪車メーカーは、独特の感性を持っていた。工芸的なものづくりの価値観はまさにその一つ。「家電は白、オートバイは黒」という時代にあって、華やかに塗り分けられたマルーンカラーのツートン塗装、七宝焼きのエンブレム、そして美しい曲線を描くスリムなシルエットなど、細部に至るまで楽器職人の仕事を連想させる繊細さが宿っていた。

工場は
座敷と思え

日本の多くの生産現場が土間に工作機械を置いて操業していた1950年代半ば、「YA-1」生産の舞台となった本社工場は、当時としては非常に先進的な施設だった。「規模は小さくても、きれいで、芯の通った模範的な工場をつくりたい」という創業者の方針で板張りされた施設は土足厳禁。入口には靴箱が用意され、従業員はここで靴を脱いで仕事にあたった。「工場は座敷と思え」という指導のもと、きわめて清潔な設備の中で初めての二輪車生産が始まった。

また、工場の壁には「品質絶対」と書かれたボードが掲げられた。「ヤマハを信頼して買ってくれたお客様に、絶対に迷惑をかけてはならない」。これも創業者の強い意志だった。

人が育つ、
人を育てる
現場

ヤマハ発動機のものづくりの現場は、伝統的に人財育成を非常に大切にする。「自分自身もそうした愛情の中で育てられてきた。ものづくりの喜びを伝えながら人を大切にすれば、必ずその人財が次の世代にバトンを渡す」「人が育つ、人を育てる現場。時代ややり方は変わっても、この良い文化は必ず受け継がれていく」と、ある監督者は話す。

およそ半世紀の歴史を持つFC(フォアマン・サークル)会は、各生産現場で活躍する監督者たちの自主的な研究会。監督者自ら自己・相互啓発に取り組みながら、後継者育成のためのさまざまな講座等を開いている。

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