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History 「挑戦の轍」

2000年代
GP500時代からMotoGPへ、ライダーの期待を超えるマシン開発の轍

MotoGP元年の2002年、ヤマハは4ストロークのファクトリーマシン「YZR-M1」を投入した。マッシミリアーノ・ビアッジ(イタリア)がチェコGPなど2回の優勝を手にしたとはいえ、年間を通じてライバルとの差は歴然としていた。勝利への分岐点はバレンティーノ・ロッシ(イタリア)の加入した2004年1月。従来のシングルプレーン(180度)かクロスプレーン(90度)クランクか? また吸排気バルブ数は4本か5本か? その組み合わせで4種をテストしたロッシは、ヤマハ技術陣の思惑通りクロスプレーンクランク・4バルブを選択。ヤマハのMotoGPでの存在感が強まっていった。

タイヤとのペアリングもヤマハにとっては試練とチャレンジがあった。2008年、フィアット・ヤマハ・チームの中でロッシはブリヂストン、ホルヘ・ロレンソ(スペイン)はミシュランを使用した。同一チーム内の各ライダーに異なるブランドのタイヤを供給するという前例のない体制を選択した。ライダーの意思を尊重し、ヤマハは敢えてそれに挑戦し、常にライダーの期待を超える戦闘力を目指した2000年代だった。

2000年シーズンにみたYZRの底力

2000年、YZR500勢最多の3勝を獲得したG・マッコイ
2000年、日本GPで優勝した阿部

「開幕戦」と「最終戦」の様相から、そのシーズンの特徴を把握できることがある。2000年のロードレース世界選手権はそんな年であった。開幕戦の南アフリカGP、YZR500を駆るギャリー・マッコイ(オーストラリア)が激しいリアスライドを伴うコーナー進入を見せ500cc初優勝。一方、最終戦の250ccでは、最終ラップ、ゴール寸前までチャンピオンの行方が分からない激戦を、ともにYZR250を駆るオリビエ・ジャック(フランス)と中野真矢(日本)が展開。YZRの懐の深い力を改めて示したシーズンだった。

マッコイは、1999年の中盤からレッドブル・ヤマハ・WCMのシートを得て、YZR500に慣れると第12戦バレンシアGPで3位表彰台を獲得した。翌2000年も同チームからシリーズに臨んだ。ファンを驚かせたのは先述の南アフリカGPでのライディングだった。マシンを斜めに滑らせ向きを変えてコーナーに突っ込んでいく走法で、このウェルコムでは、同じYZR500を駆るカルロス・チェカ(スペイン)、ロリス・カピロッシ(ホンダ)を抑えて優勝を飾ったのだった。

レースは、“次は誰が優勝するのか?”に興味が集まるものだ。しかしこの年の500ccは違った。マッコイの走りにファンは熱い視線を送った。ワイルドカード参戦のライダーも、予選でマッコイのすぐ後ろを走って観察し、その姿はピットでも話題の的となった。「スライドの影響でタイヤの消耗が早く、先頭を走れるのは序盤だけ」などと揶揄されながらも、マッコイはスタイルを変えることなく走り続けた。

マッコイは2001年の日本GPでも2位表彰台

第3戦からは悪天候に翻弄されタイヤ選択を悩み低迷したが、第12戦エストリルGP、第13戦バレンシアGPでも優勝。同年のYZR500勢では最多の3勝を飾りランキング5位にのし上がった。この年、YZR500は、阿部典史(日本)、マッシミリアーノ・ビアッジ(イタリア)、さらにチェカ、レジス・ラコーニ(フランス)にも託されていた。それぞれハンドリングの好みが異なるライダーのニーズに対しての汎用性をYZR500が示したシーズンだった。

一方、最終戦では250ccでYZR250の存在感が光った。ヤマハは1986年からファクトリーのYZR250を投入、1986年はカルロス・ラバード(ベネズエラ)、1990年はジョン・コシンスキー(アメリカ)がチャンピオン奪取した。1993年はTZ250Mを駆る原田哲也(日本)がチャンピオンに輝いたが、その後はチャンピオン争奪戦から遠ざかっていた。

1986年、250ccのチャンピオンを獲得したC・ラバード
1990年、250ccのチャンピオンを獲得したJ・コシンスキー
1993年、250ccのチャンピオンを獲得した原田哲也

チャンピオン奪還を狙い新しいYZR250を投入したのは1999年。チェスターフィールド・ヤマハ・テック3から中野、ジャックが参戦。初年度は日本GPで中野、アルゼンチンGPでジャックが優勝したが、シリーズではアプリリアのバレンティーノ・ロッシの後塵を浴びる展開が多かった。しかし、参戦2年目の2000年、この二人の伸長は著しく、主役となっていた。

最終戦をわずか2ポイント差で迎え、勝ったほうがチャンピオンとなる状況。毎周トップを奪い合うドッグファイトがファンを興奮の坩堝に落とし入れた。最終ラップは中野がトップで最終コーナーを立ち上がったが、ジャックがゴールラインを0.014秒先に通過した。チャンピオンはジャックが手にしたが、この大接戦は250cc史上最高のハイライトの一つとして、今なお語り継がれている。

操舵を巧みに使って旋回する中野と、綺麗なライン取りで旋回するジャック。微妙に異なる二人のライディングに公平に応えたのがYZR250だった。YZR500も含め、ヤマハの“ライダーを優先”する開発のベクトルが、こうした接戦を演出したと言えるだろう。

2000年、毎レースでデッドヒートを展開したO・ジャックと中野真矢
シリーズ最終戦を終え、O・ジャックがチャンピオン、中野真矢がランキング2位を獲得

節目は2004年1月のセパンだった

C・チェカは6年に渡りYZR500を駆った。MotoGP開幕戦ではYZR-M1で2位。画像は2004年フランスGP
2002年、チェコGPでYZR-M1での初優勝を達成したM・ビアッジ

MotoGP元年の2002年(500ccとの混走)から2006年は、990ccマシンで争われた。その5年間に一つの節目があった。それがMotoGPの3シーズン目、ロッシ(イタリア)をチームに迎えた2004年である。彼の才能はヤマハに2004年と2005年の世界チャンピオン獲得に大きく寄与した。YZR-M1も大きく進歩したがその足跡は未知の領域への挑戦だった。足跡を辿ると、赤道直下にほぼ近いセパンサーキットに辿り着く。2004年1月最後の週末。初めて乗るYZR-M1を心待ちにするロッシがいた。

少し時を遡る。2002年、ヤマハはYZR-M1を投入し、開幕戦の日本GPではチェカが3位表彰台。シリーズ中はホンダの後塵を浴びることもあったが、チェコGPでビアッジが優勝しYZR-M1の初優勝を飾る。さらにマレーシアGPでもビアッジが優勝。とはいえシリーズ全般ではライバルに圧倒されていた。

2002年、YZR-M1初優勝のM・ビアッジ
2003年、YZR-M1を駆るA・バロス

続く2003年、新たに燃料供給をFI化したマシンを投入するも未勝利。表彰台を獲得したのはアレックス・バロス(ブラジル)の3位1回だけだった。そうした状況が続くなか開発陣は模索を続けていた。「この2年を振返り、科学的推論を基に一番の敗因として考えられたのが後輪の駆動力にリニアリティがなかったことだった」と言う。「我々の直4に対し、ライバルのV型を分析する中で確認できた大きな違いは、出力そのものよりも出力の質、というかトルクの質の違いだった」と振り返った。

YZR-M1の基本構成は一貫して前後にコンパクトな直列4気筒を採用している。車体への搭載自由度が高く前輪荷重を最適化でき、優れた旋回性を確保できるメリットがあるためだ。その点にフォーカスし開発したのが、クロスプレーン型直列4気筒だった。直列とV型のエンジン型式の決定的な違いはクランクピン位相の相違である。レシプロエンジンの宿命の一つとして、エンジン振動を最低限に抑えるため、気筒数、エンジン型式によって、理想的な位相が決定される。直列4気筒の理想的な位相は180°であり、V型4気筒の場合は理想的な前後気筒の挟角(バンク角)により90°となる。

もう一つの宿命が、ピストン等の慣性力によりクランクの回転速度は1回転の間で僅かに変動することだ。通常の並列4気筒エンジンでは、外側の2気筒と内側の2気筒のクランクピンは180度位相のシングルプレーン配列となっているため、4つのピストンが上死点と下死点で並び、クランクの2次回転数変動を単純に4倍に増幅することになる。

クロスプレーン型クランクシャフトでは、左側2気筒、右側2気筒のそれぞれ隣り合うクランクピン配列が90度位相となっているため、この回転数変動を相殺することができる。

シングルプレーン(180度)クランクでは慣性トルクが燃焼トルクよりも大きくなっている。一方、クロスプレーン(90度)クランクの慣性トルクは燃焼トルクに比較して無視できるほどに小さくできることに着目したのである。
これが上述した「トルクの質の違い」である。

1月24日のテスト初日を前にロッシは呟いた。「シーズンオフの間、2ヵ月以上乗っていないし、YZR-M1は今まで乗っていたバイクとはまったく違うもので何もかもが初めてということもあり、ほとんどゼロからのスタートになる。と思う…」と。

テストでは数種類のエンジンを乗り比べた。「従来通りの180度クランクと、90度クランクに4バルブと5バルブを組み合わせで試した。ロッシ選手はこの4種類のうち、不等間隔点火+4バルブを高く評価し、“スイート”と言ってくれたが、“とても素直でゆっくりとした反応でありコントロールしやすい”ということの表現としてロッシ選手はスイーツという言葉を使ったのだろう。まさに私たちの想定と一致していた」と当時の技術者は証言する。

解説は続いた。「不等間隔点火そのものが本来の目的ではなく、直列4気筒エンジンにおいて、慣性トルクを極限まで小さくするために、敢えてクロスプレーンクランクを採用。結果として点火が不等間隔になったにすぎない」と。

2004年に加入のロッシはクロスプレーンクランクのYZR-M1を駆った

迎えた2004年の開幕戦、南アフリカGPではホンダのビアッジとの接戦を制してロッシが優勝。これを突破口にロッシはシーズン最多の9勝でヤマハに12年ぶりのタイトルをもたらした。この流れはマシンの熟成に繋がり、ロッシはMotoGPを牽引する存在として不動の地位を築いていった。

ロッシが加入して2年目の2005年も勢いは続いた。11年ぶりの開催となったアメリカGPのラグナセカではインターカラーに身を包んだYZR-M1をロッシとコーリン・エドワーズ(アメリカ)が駆け、揃って表彰台へ。“MotoGP”と“70年代の感慨深いGPシーン”の重なりは、ヤマハからのファンへの感謝のメッセージだった。ロッシはこの年17戦中11勝で2年連続チャンピオンに。チーム、コンストラクターズのタイトルも獲得し、3冠を達成した。

エンジニアは語る。「アクセル操作にリニアに反応する特性を目指しました。究極には電気モーターのようなトルクこそ、理想でしょう」と。2004年1月、セパンでの決断からどれだけの時が流れただろう。理想を求め、YZR-M1は進化を続けている。

2005年のアメリカGP、インターカラーで走るC・エドワーズとV・ロッシ
2005年、アメリカGPの表彰台。中央はN・ヘイデン(ホンダ)

分岐は2008年中国GPにもあった

上限800ccとなった2007年の開幕戦カタール
2007年、V・ロッシは優勝4回でランキング3位となった

上海の街中から北西へ約20km。2008年5月初旬、連休で市内の人影は少なかったが上海サーキットは活気に溢れていた。ロッシが、2005年以来3年ぶりに中国GPを制するのか? この年からMotoGPにステップアップし、直前のポルトガルGPで初優勝したロレンソはどうだろう?・・・と。ポカポカ陽気の下で行われた決勝は、C・ストーナー(ドゥカティ)、D・ペドロサ(ホンダ)を抑えたロッシが優勝。この優勝はブリヂストンタイヤ装着のYZR-M1にとって初優勝だった。

勢いづいたロッシは、ライバルのストーナーとの壮絶な接戦を制して9勝を飾り3年ぶりにチャンピオンに返り咲いた。ただ上海までの道のりは険しかった。排気量が上限800ccとなった2007年、ヤマハは燃費とドラビリを優先させたこともあり、最高速ではライバルに遅れをとりライダーの要求に十分応えられないレースがあった。

そこでエンジンの高回転化を図るため、吸排気バルブ駆動はスプリングに替え、空気バネを使うニューマチックバルブを投入したほか、7度に及ぶバージョンアップで徐々に戦闘力を向上、差を縮めていった。そうした中、ミシュランを履くロッシは4勝して健闘するが、ブリヂストンを履くストーナーにタイトルに奪われた。シーズン終盤、ロッシとヤマハファクトリーは決断した。2008年に向けてブリヂストンを選択する、と。

500cc時代、エンジニアは「最初にタイヤを決めなければマシン開発は始まらない」と言っていた。ただ1987年、チーム・ラッキーストライク・ロバーツはダンロップ、ヤマハ・マールボロ・チームがミシュランを使った。それぞれタイヤの性能をどれだけうまく引き出すか模索を続けた。結果、前者のマモラが3勝。後者のローソンが5勝、それぞれランキング2位、3位だった。

2008年、中国GP、決勝グリッドに整列する各チーム
2008年、イタリアGPで優勝したV・ロッシ

ただそれは別チームの例。1チーム2台体制で各ライダーが別銘柄のタイヤを選ぶのは例がなかった。装着タイヤはロッシがブリヂストン、ロレンソはミシュラン。ヤマハにとって新しいチャレンジだった。ふたりは同じフィアット・ヤマハ・チームでありながら、ピットはパーテーションで区切られた。1選手1ピット方式とヤマハは呼んだ。タイヤメーカー間の技術情報漏洩の懸念もなければ、ライダーとスタッフの集中力維持の効果が大きかったとスタッフは言う。このピット作戦も奏功し、2008年のロッシは中国での同季初優勝を突破口に9勝をあげチャンピオンの奪還に成功した。

続く2009年、レギュレーション変更によりブリヂストン1社供給となるが、フィアット・ヤマハ・チームは1選手1ピットを続け、ロッシが6勝で連続チャンピオンに、同チームのロレンソは4勝でランキング2位となり、YZR-M1がシリーズでワンツーを飾った。フィアット・ヤマハ・チームはライダー布陣を継続して2010年に臨んだ。しかしロッシが負傷で4戦を欠場。一方のロレンソは終盤までに7勝と勝利を重ねた。第15戦マレーシアで3位となると3戦を残して頂点へと上り詰め、MotoGPを初制覇。さらに3年連続となる3冠も達成した。2年半前の中国GP、フリー走行で負傷して決勝は思うような走りができなかったことなど、すっかり忘れていたことだろう。MotoGPで3年目のロレンソのチャンピオン獲得は、こうした1選手1ピット体制の流れを通じた物語なのだ。

2010年、オランダGP優勝のJ・ロレンソ
J・ロレンソは2010年に9回の優勝でMotoGP初タイトルを獲得

2004年、4種類のエンジンを用意しロッシが選び出したクロスプレーン型直列4気筒が、開幕戦の南アフリカGPに向けて性能を高め、ロッシのヤマハでの初レース・初優勝を呼び込み、2004-2005年の連覇を実現した。さらに2008年、新採用のタイヤに込められた思想を鑑み、性能を最大限に引き出す徹底的なチューニングもあってロッシが再びチャンピオンを獲得。これらの蓄積が2009年、ロッシの連覇、2010年のロレンソの初チャンピオン獲得と3年連続3冠に貢献した。ライダーの理想とオフィシャルサプライヤーの思想をリスペクトするヤマハイズムは、遠い過去から連綿と受け継がれているものだが、この姿勢がライダーの期待を超えるモノづくりに繋がっているのである。

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