ウェイン・レイニーの活躍で始まった1990年代のWGPだが、500cc参加台数の減少という不安要素も露呈していた。歯止めをかけるべくヤマハはタイトルを最優先としながらも、WGP振興策を打ち出した。500ccに参戦を希望するプライベートチームにチャンスを提供し、WGPのプレゼンスを守ったのだ。その頃には、現在の”クロスプレーンエンジン”開発に繋がる技術思想が芽吹いている。
1990年代中期に入るとチャンピオン獲得から遠ざかり厳しいシーズンが続いた。後年、V・ロッシが「ボクのアイドルだった」と回想するNorick(阿部典史)らが奮闘したが、チャンピオンに手が届かない状況が続いた。それでもヤマハのファクトリー開発部門の変革など、さまざまな要素がクロスオーバーし、21世紀、モータースポーツの新時代に向けてヤマハは突き進んでいった。
YZR500は毎シーズン進化を遂げてきたが、1990年以降もウェイン・レイニー(アメリカ)の快進撃とともに熟成が続いた。その中で特筆すべきは、レイニーがV3を獲得した1992年型YZR500(0WE0)のエンジンであり、現在の「クロスプレーンエンジン」へと繋がる技術者の思惑があった。
1988-89年とラッキーストライク・ヤマハで活躍したレイニーは、1990年からマールボロ・ヤマハ・チームへと移った。その1年目となる1990年は、シーズン7勝で2位のケビン・シュワンツ(スズキ)に大差でチャンピオンを決めた。続く1991年はミック・ドゥーハン(ホンダ)との争いとなり、レイニーは6勝、参戦した14戦中13レースで表彰台に上がり破竹の勢いで2年連続チャンピオンを手中に収めた。
V3を狙った1992年。ドゥーハンが序盤好調で開幕から4連勝し、大きな差をつけられていたレイニー。しかしドゥーハンが第8戦に負傷し4戦を休場する間に着々とポイントを重ね、シュワンツを抜いてランキング2位に浮上しドゥーハンに迫っていった。2ポイント差で迎えた最終戦の南アフリカGPは、終ラップまで行方が見えない展開。レイニーは3位、ドゥーハンは6位でゴールして逆転し、V3を決めたのだった。
この1992年型YZR500は、従来の155PSから160PSに戦闘力向上が図られた。そして第9戦ハンガリーからは位相同爆方式を採用。トルク特性は、「爆発トルク」と「クランク回転慣性トルク」の合力で決定される点に着目したものだった。
YZR500のV型4気筒は従来180度間隔で対角線にある気筒が同時点火していたが、ハンガリーからは「0度・90度間隔」で対角線上の2気筒が同時爆発する点火となった。これで低中速域でのトラクションが向上しコーナー脱出力の向上が図られた。その着眼点は、クロスプレーンエンジン開発で狙った”リニアなトルク特性”と同じと言えるだろう。
1993年もレイニーの勢いは続いた。しかし4連覇が見えた第12戦イタリアGP、走行中にハイサイドで転倒。背中に深刻なダメージを負い、シーズンを終えることとなった。そして、レイニーは翌1994年車椅子でレース現場に復帰。マールボロ・ヤマハ・チーム・レイニーを立ち上げ、1998年の退任まで、阿部典史(日本)や原田哲也(日本)の活躍に尽力してきた。レイニーもまた、ヤマハのチャレンジスピリットを継承し伝承した1990年代を象徴する偉大なレジェンドの一人なのである。
1990年、500ccはこの年、ヤマハに復帰したエディ・ローソン(アメリカ)、初チャンピオンを狙うレイニー、スズキのシュワンツらによる激しいチャンピオン争いにファンは期待を寄せた。結果、先述の通りレイニーが初めて500ccを制したが、一方500ccにとっては懸念要素もあった。
それまで30台近いマシンが並んでいた開幕戦の日本GPだったが、この年の予選に出走したのは26台。第2戦アメリカGPは17台。欧州ラウンドでも、スペイン、ドイツ、オーストリアなどのレースで20台を切った。ファクトリーマシンが高性能化、高価格化するなか、プライベートチームにとってマシン入手が困難となっていたのだ。
チャンピオンは獲得したがこの状況に歯止めをかける必要があるとヤマハは考えた。そこで1991年からYZR500の有力チームへのリースを開始した。非ファクトリーチームへのリースは、ライダーだけでなくメカニックにとっても刺激的なものとなった。「ファクリーマシンのセッティングやメンテナンス作業は、緊張感があり、貴重な経験となった」との声はメカニックから異口同音に聞かれた。さらに一歩進んだ活性化策をヤマハは講じた。500ccエンジンの販売だった。
それは1991年9月に発表された。「当社では、ロードレース世界選手権、全日本選手権のGP500の一層の活性化を目的に、レース用500ccエンジンの販売を行うことを決定。販売するエンジンはYZR500のV型4気筒500ccで、対象は第1弾として欧州諸国の有力コンストラクターです」と。翌1992年1月から10基の販売予定を発表した。
ヤマハは1989年から四輪レースの世界最高峰F1にエンジン供給メーカーとして参戦していた。エンジン供給者とコンストラクターがパートナーとして融合するチームの構造があったが、そのF1スタイルをヒントにした。
効果はすぐに現れた。1992年の開幕戦日本GPでは、エントリー台数の約60%の23台がYZR500とYZR500エンジン搭載車だった。開幕戦の決勝を前に、ヤマハの前川和範監督はメディアに向かってこう話した。「500ccの活性化はここ数年間私たちの使命でしたが、日本GPは多彩なエントリーとなり嬉しい限りです。ロセ、ハリスなどヨーロッパ製のマシンが走ることで、ファンの皆さんには大いに楽しんでもらえます。シリーズの中で各国・各地域のコンストラクターが、新しいアイデアと工夫でオリジナリティを出すことでさらにマシンの熟成が進めば、一層活性化するでしょう」
その勢いは続き1993年のWGP500は平均エントリーも33台に復活、シリーズを終えてみれば「YZR500」および「YZR500エンジン搭載マシン」のライダー29名がポイントを獲得したのである。
関東の桜は散っても、西からの冷たい風の影響で鈴鹿にはピンクの花びらが残っていた。1996年の日本GP決勝は桜吹雪の中でシグナルGOとなった。#9のYZR500を駆る阿部は予選11番手、グリッド3列目からスタートダッシュを決めると4番手でグランドスタンド前を通過した。
WGP500への挑戦は5年前の4月から始まっていた。中学卒業後、MFJライセンス取得年齢に達するまでの5ヵ月半、米国でダートレースを体験しドリフト走行を覚えた。16歳の1992年はTZ250を駆りスーパーカップイースタンシリーズNA250でランキング2位。17歳で迎えた1993年、全日本500ccにホンダNSR500で参戦すると先輩ライダーを抑えてチャンピオンに。翌年春の日本GPにワイルドカードで参戦、終盤までトップのシュワンツを追いまわし場内を陶酔させた。痛恨の転倒を喫するが強烈な走りはファンの度肝を抜いた。
しかしWGPフル参戦への道は険しかった。この年、国内メインレースは、500ccからスーパーバイクへと変わり、阿部は4ストロークのホンダRVFで国内レースを走ることにし、WGPへのチャンスを待った。トップ争いに加われないまま夏を迎えた時、転機が訪れた。WGP500にマールボロ・チーム・ロバーツから参戦していたダリル・ビーティがフランスGPで負傷しシートが空くと、チームはそこに阿部を迎えることを決めたのだった。ただその頃の阿部は”ホンダのライダー”だった。
7月2日、ヤマハの広報スタッフは、ワープロを抱えて東京駅から東北新幹線に乗り込んだ。翌日のSUGO大会の会場で、ホンダからの全日本参戦を中止し、ヤマハでWGP500に参戦するという移籍の発表が目的だった。パドックのワゴン車の中で、ホンダとヤマハの広報担当者は互いに準備したリリース原稿を見せ合い整合性を確認、そしてプレスに発表した。「ホンダにとって彼はGPライダーの有力候補だったが、それを大人の意識でヤマハに譲ったね」と評する記者もいた。
阿部は2週間後のイギリスGPでチームに合流。初のYZR500を駆ったチェコGP、続くUSGPは6位。翌シーズン1995年もフル参戦し1回の表彰台に立つが、転倒もありランキング9位に。しかし1996年春、鈴鹿に戻ってきたときは違った。「バイクにひっぱられる乗り方と、バイクをひっぱる乗り方がある。明日の典史は、バイクをひっぱって乗れそうだ」と予選を終えた夜、父は話していた。
その言葉通り、阿部はYZR500をひっぱっていた。8周目、ドゥーハンをパスしトップに浮上すると、やがてドゥーハンは後退。背後に迫ってきたアレックス・バロス(ホンダ)、青木拓磨(ホンダ)は転倒で戦列を離れ、2位につけてきたアレックス・クリビーレ(ホンダ)も阿部には及ばなかった。終盤もペースを緩めず、予選タイムを約2秒つめるファステストラップをマーク、7秒差でゴールした。YZR500で15人目のグランプリ優勝者は、こうして誕生した。
1997~1998年はヤマハにとって茨の道だった。1996年の最終戦でのロリス・カピロッシ(イタリア)の優勝以後、YZR500のライダーは22戦未勝利が続いていた。1997年は全15戦中、表彰台はカダローラ4回、阿部1回の計5回に終わった。500cc初参戦以降、経験のない屈辱的なシーズンとなった。「阿部選手とカダローラ選手では走り方も異なり、マシンへの要求項目に異なるところがあるのでしょう。それが開発に影響したのかもしれません」とのチーム関係者の声もあったが、勝利を待ち望むファンは受け入れられなかった。
翌1998年の日本GPではスポット参戦の芳賀紀行(日本)が3位と健闘するが、シーズンでは表彰台中央が遠かった。そのなかで一矢を報いたのがサイモン・クラファーだった。かつてハリス・ヤマハで500ccにデビュー。その後スーパーバイクで活躍し、この年レッドブル・ヤマハ・WCMに加わったニュージーランド人。第7戦ダッチTTで3位、第8戦英国ではポール発進、ドゥーハン、阿部と互角の戦いを演じファステストラップを記録して500cc初優勝を果たす。ヤマハにとって、500ccでの22戦連続未勝利という屈辱を晴らした瞬間だった。
1990年代序盤から、プライベ―トチームへのYZR500エンジンの供給などWGPの振興に尽力したヤマハの支援策が一役かっていた。ライダーに出場チャンスを提供し成長を促したのだ。そして技を磨いていったライダーの力は、ヤマハファクトリーの久々の優勝に繋がったのである。とはいえ1997-98年はホンダ勢が好調で、ランキング5位までを独占、ヤマハにとって厳しいシーズンが続いていた。
1998年のシーズンを終え北風が冷たくなってきたころ、一人のイタリア人が成田空港へ降りた。乗車券を買うため窓口でその旨伝えると、JR係員は「あッ!ビアッジだ!」と驚きを隠せなかった。この頃、マッシミリアーノ・ビアッジのホンダからヤマハへの移籍は日本でも広く知れ渡っていた。翌1999年のシーズンに向けビアッジは、東京駅で新幹線に乗り替え、静岡県にあるヤマハのテストコースへと急いだ。
250ccで4年連続チャンピンオンというそのポテンシャルに、ファンは期待を寄せていた。1999年のビアッジは、第3戦スペインでヤマハで初の表彰台。その後は怪我などで波に乗れなかったが、サマーブレイク後には調子を戻し、南アフリカでのシーズン初優勝を含め終盤は4戦連続表彰台でランキング4位。ここまでの沈黙から反撃の準備を進めていった。
ヤマハにはその頃、もうひとつの仕事があった。500ccの時代が終焉に向かいつつあり、それに代わって4ストロークマシンが主役となろうという潮流の中、開発のプライオリティを徐々に変更していたのだ。「かつては500ccマシンが最優先で、市販車ベースの4ストロークマシンの開発は2番目の優先順位でした。しかし、新時代に向けて90年代の後半からこれを1本に集約していく流れがありました」と開発者は語った。
ヤマハの4ストロークマシンによる本格的なファクトリー参戦は、1985年3月10日、鈴鹿2&4レースに始まった。TT-F1クラスに市販FZ750をベースとしたFZR750を投入。上野真一(日本)が駆り予選2番手発進。トラブルのため決勝は8位となったが、中盤3番手を走り先行する2台を追い始めたときの速さと旋回性は潜在能力の高さを示した。そして同年の鈴鹿8耐では、平忠彦(日本)とケニー・ロバーツ(アメリカ)の「ゴールデンコンビ」がFZR750を駆りトップを独走。ラスト30分に突然のトラブルによるリタイアとなったが、その結末とともに、FZR750のポテンシャルが20万に近いファンが埋めた場内を騒然とさせたことは言うまでもない。
「ヤマハの4ストロークは、FZの誕生でようやくライバルと肩を並べるレベルに辿り着いた」と技術者は回想するが、実際にはライバルを凌駕する潜在力をFZ750、FZR750は示した。翌3月のデイトナ200マイルではエディー・ローソン(アメリカ)がファクトリーチューンの市販FZ750で2年ぶり17回目の優勝を果たした。鈴鹿8耐でも1987年、1988年、1990年と表彰台中央に登った。ライバルとなるホンダのV型4気筒に対し、直列4気筒の可能性に賭けていたのだ。
1988年にスーパーバイク世界選手権がスタートすると、4ストロークレースのメインはTT-F1からスーパーバイク(SB)へと変遷を遂げた。TT-F1とSBのマシン開発上の違いのひとつは、”SBではエンジンの重心位置が変えられないこと”と言われているが、ヤマハはそこに挑戦していった。1995年からWSBKにファクトリー参戦。1994年、ボルドール24時間耐久では永井康友(日本)+サロン兄弟(クリスチャン&ドミニク、ともにフランス)がYZF750を優勝マシンに押し上げた。
こうして、1985年からの続く4ストファクトリー開発のノウハウは、やがて500ccマシンの開発部隊と融合していくこととなる。その新体制のミッションはMotoGP用YZR-M1開発である。「YZR500系のフレームを母体に車体を作り上げたい気持ちがあった。そのフレームに搭載できる4ストの種類を規則に沿って考えると、直4が最適という結論になった」と当時の開発責任者が回想している。2002年、MotoGP初年度チェコGPでヤマハはMotoGP初優勝、そのYZR-M1を駆ったのはヤマハ在籍4年目のビアッジだった。そしてこれを皮切りに、2000年代中期からの快進撃に繋がっていく。