WGP参戦60周年記念サイト

History 「挑戦の轍」

1980年代 前半
熱狂の時代の中で、後世に残るレガシーを獲得

1980年代のロードレース世界選手権は、かつてない盛り上がりを見せていた。日本4メーカーのファクトリーマシンが出揃い、マシン性能も飛躍的に進化した。

YZR500を駆るケニー・ロバーツは1980年ロードレース世界選手権(WGP)500ccクラス3連覇を成し遂げたが、1981年以後、ヤマハ勢はライバルとタイトル争奪戦に苦戦するシーズンもあった。しかしその中でヤマハが貫いたのは、ライダーの感触を優先したマシン開発だった。その中で、80年代後半のタイトル獲得の布石となる技術、さらに21世紀の市販スポーツバイクのプロトコルともいえる”デルタボックスフレーム”の第1号車も生み出していった。

スクエア4からV4へ 1981~82年

1981年、カラーリングとグラフィックを一新した、白と赤のYZR500を駆る#1 K・ロバーツ
1981年、フランスGPを走る#1ロバーツと#7シーン。シーンのヘルメットはいつもドナルドダックのマークが描かれていた

1981年、バリー・シーン(イギリス)がヤマハチームに合流した。1976-77年とスズキで500ccタイトルを取り、英国の英雄と言われたライダーの加入だった。ケニー・ロバーツ(アメリカ)とシーンという強力なコンビが揃った。マシンのグラフィックも一新。新しいYZR500は、V3時代に使った黄色と黒のヤマハUSカラーから、白地に赤のブロック模様が流れ濃紺の差し色が入っていた。揃いのYZR500を駆る二人の姿は、ヤマハ純血マシンの輝きを放っていた。

この年は、全11戦でロバーツが2勝、シーンが1勝でランキングは3・4位となり、スズキのM・ルッキネリにタイトルを譲ることになった。しかし、実戦で見せた二人のランデブー走行はヤマハのグランプリにおける存在感を力強くアピールした。

 

この年ヤマハは、2種類のYZR500を投入している。両外側後方排気エンジンをアルミフレームに搭載した0W53と、4気筒を正方形に配した「スクエア4」の0W54だ。スクエア4は、高速で有利なロータリーディスクバルブ吸気方式だった。ストレートのスピードで負けないようコンパクトなV4も同時開発したが、「いきなりV型4気筒に移行するにはリスクもあり、中継ぎ的な意味でスクエア4を投入した」と開発者は振り返っている。

1982年、アルゼンチンGPで優勝を果たしたロバーツ
1982年、アルゼンチンGPワンツーフィニッシュのロバーツとシーン。直後にフォークランド紛争が勃発し、以後数年当地でのGPは開催されなかった
1982年、V型4気筒エンジン搭載の新型YZR500を駆り、ランキング4位となったロバーツ

1982年は、ホンダのF・スペンサーがV型3気筒NS500を駆り参戦。K・バリントンはこの年もカワサキKR500のスクエア4で参戦し、最高峰クラスに4メーカーの2ストロークが揃った。ヤマハはロバーツ、シーン、グレーム・クロスビー(ニュージーランド)、マルク・フォンタン(フランス)にYZR500を託した。開幕戦のアルゼンチンでは、ロバーツとシーンがワンツーを飾り順調な滑り出しとなる。

ファンの注目を浴びたのは第2戦のザルツブルクだった。V型4気筒エンジン搭載の新型YZR500(0W61)を発表し、これを駆ってロバーツが3位。第4戦スペインで2勝目。その後はミサノで4位、オランダ2位、ベルギー4位。終盤の5戦はトラブルなどが続きランキングは4位に終わる。クロスビーは未勝利ながら5度の表彰台を獲得してヤマハ最上位の2位。好調だったスズキのF・ウンチーニがタイトルを獲得。スペンサーもベルギーGPで勝ち、ホンダ史上初の2ストローク500ccでの優勝となった。

芳しいレース結果とは言えないが、様々なパワーユニットで臨んだ2年間に吸収したノウハウは多岐に渡っている。ロータリーバルブ吸気(0W54)、ベルクランク採用リアサスペンション(0W60)、アンダーループレスフレームと横置きリアサスペンション(0W61)など。それらは後のWGP、市販レーサー、市販スポーツバイク開発の糧となっていったのは、言うまでもない。

V4エンジン搭載のためのフレーム開発 1983年

1982年のYZR500(0W61)に採用されたV型4気筒
1983年型YZR500(0W70)はデルタボックスフレーム第1号

ライバルに勝つためにはより高性能なエンジンの開発が早急に必要だった。前年にデビューしたスクエア4は、以前の直列4気筒に比べて出力はアップしていたが、エンジンサイズが大きく、操安性への干渉がライダーを満足させなかった。250cc並みの幅・重量のエンジン開発で、ライダーの期待に応えたかった。

「ロータリーディスクバルブ吸気のV型4気筒を開発せよ」との指針はトップダウンだった。取締役の畑則之の英断だった。開発陣が頭を抱えたのが、燃料供給系の配置だった。オーソドックスなサイドロータリーディスクバルブ吸気では、せっかくのV4レイアウトのメリットを活かせない。よりコンパクトにする策をエンジニアたちは検討し、議論した。しかし開発は思うように進まなかった。

そんな中、ある開発者の一言が進展を生む。「Vバンクの中でロータリーディスクが回ってくれればいいのだが…」。開発責任者は、その呟きを元に「構想が固まった」と確信を得る。前面投影面積で不利な側面ロータリーバルブではなく、Vバンク内にキャブレターを配置し、一枚のロータリーディスクが2気筒分の吸気を受け持つ独創的な構想。開発当初はサイド吸気の性能に追い付かなかったが、試作を繰り返しついにWGP史上初のV型4気筒搭載の500ccマシン、YZR500(開発型式0W61)が完成した。1982年の2月、WGP開幕の直前だった。第2戦オーストリアGPザルツブルクでデビューすると、ロバーツは3位入賞を果たした。

0W61(1982年型YZR500)は、横置きのリアサスペンションだったため、V型4気筒のスリムさを十分に活かせなかったこともあり、ヤマハは次期モデル開発に早速取りかかった。リアサスペンションは、1982年の開幕戦でワンツーを飾り実績のあったスクエア4(0W60)のリンク式モノクロスに、V型4気筒エンジンと同じ幅に籠のように収める新しいフレームを開発した。ヘッドパイプの上下と、ピボットを短い直線で結ぶ三角が特徴のデルタボックス型フレームの誕生だった。型式は0W70だった。

最終戦までタイトル争いを展開したYZR500とK・ロバーツ

1983年、ヤマハは0W70をロバーツとエディー・ローソン(アメリカ)に託した。ロバーツはホンダV型3気筒NS500のスペンサーと最終戦まで熾烈なデットヒートを展開、僅差でスペンサーがタイトル獲得したが、優勝回数6回ずつ、2位も3回ずつ、ポールポジションも6回ずつのGP史上例のない超接戦は、記憶に残る名勝負として現在も語り継がれている。その白熱戦を走った0W70のフレームは、以後40年近くたつ今日も熟成・進化を続けながら多くのスポーツバイクに使われるプロトコルとなった。

チームワークで開発したマシン1984年

1984年、WGPの前哨戦、デイトナ200マイルレースを走るローソンとYZR700
1984年、デイトナ200マイルレース、YZR700で優勝したロバーツと4位のローソン、5位の平

1984年春、鈴鹿サーキットで行われた2&4レース。この日は細かな雪が舞い冷たい風が吹いていた。前年ヤマハファクトリーに復帰した河崎裕之(日本)は、自ら開発を手掛けたYZR500(0W76)を飛ばし、優勝目前だった。しかし最終ラップ、こともあろうか駆動力を失い、下り勾配の最終コーナーからチェッカーに向かうまでは惰性に頼るしかなかった。そこをホンダとスズキのマシンが駆け抜けた。結果は3位。「原因はエンジン関係のトラブルでした。あの時は本当に悔しかった。でもすぐに対策を施し、改良したエンジンを南アフリカに空輸することができた。それがエディの初優勝に繋がった」と河崎は証言している。

同じ日、デイトナ200マイルレースでは、ヤマハの13連勝がかかっていた。ヤマハはスクエア4のYZR500(0W60)をモデファイしたYZR700(0W69)で参戦。前年WGPを引退したロバーツと、新しくヤマハGPチームのエースに座るローソン、前年の全日本を制した平忠彦(日本)が駆った。ライバルはNSR500を駆るスペンサー。ロバーツはタイヤ交換なしで走りぬき独走で優勝、ローソン4位、平は5位だった。この日、ロバーツ、ローソンから走りの技を会得する道を選んだ平は、「自分のキャリアの中でも、とても多くのものを吸収できたレースでした」と語っている。

1984年3月24日のキャラミ(南アフリカ)。日本から届いたそのマシンを駆り、ローソンは500ccで初優勝を飾った。実戦を通じて開発に携わるライダー、先輩として”技”を伝授するライダー、タイトル奪取を目指すライダー。立ち位置は異なっても、目的達成に向けた強い熱意とライダー同士の強固なリレーションが優勝へとつながったのである。

1984年、YZR500(0W76)
1984年、第8戦オランダGPで3位としリードを拡大したローソン
1984年、第11戦スウェーデンGPでチャンピオンを獲得したローソン

ヤマハYZR500は30年を超えて進化を続けていった。直列4気筒が8種、スクエア4が2種、V型4気筒が18種… 進化の中には節目があるが、ローソンが初の500ccチャンピオンに輝いた1984年型のYZR500(0W76)は、様々な面で「節目」であった。WGPの頂点を目指すエンジニア、開発ライダー、レーシングライダーたちの情熱とチャレンジスピリットが繋がり合い、強力なチームワークで開発した一台となり、そこに集約されたすべてが、ヤマハの開発者、ライダーに受け継がれ、レースマシンや市販車に反映されていった。

1980年代 後半
500/250ccダブルタイトルの輝きとGPマシンのさらなる発展

WGP250ccはプライベート選手が技を競い合う舞台、というポリシーを1969年からヤマハは守っていたが、1984年、急きょ方向転換することになった。ただ250ccを専用開発する時間の余地はなかった。選んだのはその頃開発中だったV型4気筒・500ccを縦割りにして半分にする方法だった。500ccの型式が「0W81」で、250ccの型式が「0W82」と並ぶのはその理由からである。

カルロス・ラバード、エディー・ローソンの活躍で両マシンとも1986年にチャンピオンマシンとなるが同時に「0W81」は多くのWGP500ライダーのパートナーとなり、一方「0W82」は後の市販レーサー、市販スポーツバイクのルーツにもなっていった。

250ccファクトリーマシンの復活 1986年〜

 

1984年5月26日、スポーツランドSUGOには、初夏の太陽が照りつけていた。全日本ロードの250ccは、一部に欧州製フレームにTZエンジンを搭載するチームもあったが、事実上TZ250のワンメークレースだった。そこにこの年からホンダのVツインのRS250Rが投入された。第6戦となったこの日、RSと阿部孝夫のコンビは独走で優勝する。それはロードレース世界選手権(WGP)のレースファンにとって、ヤマハにとって驚愕であった。

1982年、WGP250ccタイトルを獲得したJ・ルイ・トルナードとTZ250
1986年、WGP250ccタイトルを獲得したC・ラバードとYZR250

ヤマハは1968年を最後にWGP250ccへのファクトリー参戦を控えていた。250ccはプライベイトライダーが切磋琢磨する場と考えていたからだ。特に1973年の初代TZ250発売以後は、「250ccは市販車で」というポリシーを守ってきた。そして、このTZ250で1982年には、A・マンク(カワサキKR250)との接戦を制したジャン・ルイ・トルナード(フランス)が、翌年の1983年はカルロス・ラバード(ベネゼエラ)がチャンピオンに輝いた。しかしその後、強力なライバル車の登場により、ポリシーを転換する時が来た。

250の新型マシン開発はゼロからのスタートではなかった。先行開発していた1985年型YZR500(0W81)のエンジンを流用、V型4気筒を縦割りにしたVツインとし、クラッチ、ミッションは専用開発。そのYZR250(0W82)がWGPに登場したのが1985年の最終戦。予選でベストタイムを叩き出し、ポテンシャルを示したが、その年はホンダのRS250RWとF・スペンサーがチャンピオンを獲得した。

M・ウイマーとYZR250、1986年スウェーデンGP
1986年の最終戦サンマリノGP、優勝したのは平忠彦とYZR250(#31)
1990年250ccタイトルを獲得したJ・コシンスキー&YZR250

YZR250は1986年の初戦から投入され、ラバード、マーチン・ウィマー(西ドイツ)、平忠彦(日本)が駆り参戦する。開幕戦で優勝したラバードは、第3・4戦も連勝。トップを走りながら転倒したこともあったが、アグレッシブな走りはファンを魅了し、シリーズ6勝で自身2度目の250ccタイトルを獲得。最終戦サンマリノでは平が23人のごぼう抜きで自身初のWGP優勝を飾った。YZR250は全レースでポールポジション(ラバード7回、ウイマー4回)を獲得する速さも示したのだった。

1軸VツインYZR250の技術を反映して誕生した1991年モデルの市販スポーツTZR250R

このYZR250は、1987年まで2軸Vツインエンジンだったが、1988年から1軸Vツインとなる。2軸Vツインは振動面こそ優位だが、同爆なので始動性に課題があったという。始動性を重視したヤマハは90度・270度間隔爆発の1軸Vを選択。この1軸VツインYZR250は1990年、ジョン・コシンスキー(アメリカ)のWGP250ccタイトル獲得を支えることとなる。そして1991年の市販レーサーTZ250、同年の市販スポーツモデルTZR250Rへと展開されていった。WGPのノウハウが市販車へと展開された象徴的な例である。

ライダーを支えた逆転2軸 1985年~

1985年の西ドイツ、F・スペンサー(NSR500)を追い上げるC・サロン。この後パスして優勝を遂げた
1987年サンマリノGPで優勝したR・マモラ

1980年~1990年のWGP500ccを席巻したのはケニー・ロバーツ(アメリカ)、エディー・ローソン(アメリカ)、ウェイン・レイニー(アメリカ)だったが、彼らに肩を並べる人気のライダーの存在も忘れてはならない。YZR500は、こうした多様なライダーのライディングスタイルに呼応しながらWGPを走っていた。

クリスチャン・サロン(フランス)は市販レーサーTZ250で技を磨き、1984年には淡いブルーのソノートカラーのTZを駆りWGP250ccチャンピオンに。翌1985年から6年間WGP500ccを走った。ハングオンスタイルが主流だった当時、彼のライディングフォームは異なっていた。コーナーで身体をイン側に寄せるものの、頭の位置はステアリング軸のほぼ延長線上付近にありリーンウイズに近かった。舵角を巧みに引き出し、綺麗にマシンの向きを変えた。派手なアクションはなかったが、確実にライバルを追い詰めていた。500ccでの優勝は1985年5月の西ドイツGPの1度だけだが、6年間で18回表彰台に登った実力は、フランスのWGPファンの誇りでもある。

ランディ・マモラ(アメリカ)もWGP参戦は1979年のTZ250で始まった。WGP500ccではスズキ、ホンダを経験した後、1986~87年はラッキーストライク・ヤマハに加入。コーナーでアウト側のステップから足が離れる「マモラ乗り」はホンダ時代に話題となったが、YZR500でそのスタイルは見せずウエットでの速さも身上だった。YZR500で走った2シーズン、全26戦中19回表彰台に登り、とくに1987年はローソン同様、ライバルの脅威だった。

K・マギーは1988年のスペインGPで500cc初優勝。同年夏にはW・レイニーとのペアで鈴鹿8耐優勝。その後も、8耐、全日本などで活躍した
1985年以降、YZR500の最終型まで継承された逆転2軸クランク

ケビン・マギー(オーストラリア)は4ストロークマシンを駆り頭角を現した。鈴鹿8耐での1987~88年の連勝が輝くが、1980年代後半のWGPを語るとき彼を欠かせない。1987年はスポット参戦、1988~89年はラッキーストライク・ロバーツからフルエントリーした。負傷欠場もあったが、28戦中6位以内のフィニッシュが21回と安定感があり、優勝1回、3位1回を獲得。常にライバルに肉薄する存在だった。ピットで「マシンの調子はどう?」と尋ねると、決まったように「ブレーキがスポンジー」と答えていたが、それは果敢なコーナー突っ込みが持ち味の彼らしい答えだった。

こうしたライダーたちのライディングスタイルにYZR500は応えてきた。なかでも操安性に貢献したポイントだと開発者が語るのが1985~86年に投入したYZR500(0W81)だ。以前のV型4気筒のクランク軸は2本とも進行方向に回っていたが、0W81では下側を進行方行、上側を逆に回転。ジャイロモーメントによる操縦性への干渉を抑え、ライダーの感触を優先する設計が狙いだ。この逆転2軸は、以後もYZR500の最終型0WL9(2002年~)まで引き継がれていった。

ファンが待ちこがれた20年ぶりの日本GP 1987年

1987年、WGP開幕戦鈴鹿、手前のブルーのマシンはテック21カラーの平忠彦

1987年、当時最多の全16戦が組まれたWGPは鈴鹿で開幕した。1967年以来の日本開催。500ccは日本で初開催だった。ヤマハ、ホンダ、スズキのライダーが500cの表彰台に登り、ファンの喝采を浴びたが、ヤマハにとってこの日は、いろいろな意味があった。

ホンダが4ストロークNR500でWGPに復活したのは1980年から。最初の2年はノーポイントだったこともあり、1982年から2ストロークNS500を投入した。その2年目の1983年、ヤマハYZR500を駆るロバーツとWGP史上かつてない大接戦の末、ロバーツは僅差で敗れホンダを駆るスペンサーがチャンピオンを獲得。またホンダにとって16年ぶりのメーカータイトルだった。

1983年、K・ロバーツはタイトルを奪還できずランキング2位に終わった
1982年、TBCビッグロードレース、ゼッケン「C」はG・クロスビー

この1983年のWGPでの熱戦は役者が揃ったことを示すとともに、遠く離れた日本の二輪・レースファンの間では大きな話題となり、現地の情報を掲載した二輪専門誌が飛ぶように売れていった。また、この年に日本の史上最高となる320万台を超える販売台数を記録したことにも少なからず影響を及ぼした。これらの現象から、日本の二輪専門誌の編集員などの間では、二人の戦いが20年ぶりのWGP日本GP開催への呼び水となったと言われていた。

一方、WGPが日本で開催されなかった間、ヤマハは”本場のグランプリ”を日本のファンが味わえる舞台を提供した。1977年から、WGPの日程終了後にトップライダーを招き、スポーツランドSUGO(宮城県)を会場に、TV局主催の「TBCビッグロードレース」の開催に尽力。GPシーンの再現とあって日本のファンには貴重な機会となった。当初はF750がメインだったが、1981年秋からは500ccがメインに。500ccのGPマシンは全日本のレースでも見ることはできたが、日本のファンはロバーツ、バリー・シーン(イギリス)、グレアム・クロスビー(ニュージーランド)、ローソンらの走りに陶酔。日本でのWGP500開催を望む機運を高めていった。

1987年、鈴鹿、青いリアホイールのYZRを駆るR・マモラ
1987年、日本GPで優勝したR・マモラ

こうした様々な要素が絡み合い1987年、日本グランプリが実現した。その鈴鹿、マモラはラッキーストライクカラーのYZR500について、最後のセットアップで賭けにでた。ピットには青いホイール&タイヤがあった。前年YZR500の貸与を受け全日本選手権ランキング6位となり、ワイルドカード参戦する藤原儀彦(日本)のYZR500用スペアだった。マモラは、フリー走行でその青いホイール&タイヤを履くと好感触を得て、そのまま決勝グリッドに並んだ。ウエットとなった決勝では、1周目からトップに立ち2位のW・ガードナー(ホンダ)に42秒の差で独走。WGP500で通算11勝目を飾った。青いリアホイールは仮に見えたかもしれないが、そこにはスポンサーカラーに固執せず、ライダーの感覚を大切にしたヤマハチームのスピリットと英断があった。

この英断に関わっていたのが監督としてこの日本GPを迎えたロバーツだった。1983年の大接戦から3年半が経過していたが、ロバーツ、そしてヤマハにとっては忘れられない敗北だった。その雪辱を様々な形で果たしてきたが、ヤマハとしても待ち望んだ20年ぶりとなるホームグランプリで、母国ファンの目の前での優勝も、当時の悔しさを晴らす大きな勝利となったのである。

あの日の鈴鹿でのYZR500の優勝はたくさん意味がある。ライダーのフィーリングを優先する戦術。1983年の雪辱を果たしたこと。そして、各日本メーカーやファンらと同様に日本GPの開催を展望し、10年にわたって「TBCビッグロードレース」開催などに尽力してきた自らにとって大切な勲章となったのだ。

計測技術とレイニーの功績 1989年

1988年、鈴鹿8耐でポール・トゥー・ウインを飾ったW・レイニー
1988年、WGP参戦初年度でランキング3位となったW・レイニー

レイニーは、ロバーツ、ローソンの後を引き継ぎヤマハのエースとして活躍、1990年に初のタイトルを獲得したが、飛躍の節目のひとつが鈴鹿8耐である。AMAスーパーバイクで2回のタイトル(カワサキGPz/ホンダVFR)を獲得した後、1988年、ロバーツ率いるラッキーストライク・ヤマハチームのシートを得たレイニー。WGP500cc初参戦ながら4レース目のポルトガルで2位。その後も3戦連続表彰台と勢いに乗っていた。GP日程の合間をぬって参戦した8耐では、マギーと組み貫禄のポール・トゥー・ウイン。そのシーンを語るファンは多い。

8耐から2週間後の英国GPはドニントンパーク。ローソンとガードナーの一騎討ちが予想されたが、予選5番手・セカンドロー発進のレイニーは猛烈なダッシュで先頭を奪う。するとそのまま独走して初優勝。8耐で見せた熱烈な走りをGPで再現した。こうして全15戦のほとんどで上位を獲得しランキング3位となった。

1989年、USGP、YZR500(0WA8)には30チャンネルの計測装置が装着された
1990年、初のWGP500タイトルに輝いたレイニー、画像はベルギーGP
1990年、型式0WC1のYZR500

フル参戦2年目の1989年は15戦中優勝3回を含む13回の表彰台を獲得しランキング2位。この年のレイニーの相棒YZR500は「0WA8」という型式だった。制御やセッティングに欠かせない計測技術が投入され、回転数、スロットル開度、YPVS作動量、ブレーキ油圧、タイヤ空転状況など30チャンネルに及ぶ走行中の情報を収集し、技術者とライダーが情報を共有化することでセッティングの方向性や課題解決に役立てた。

この1989年の蓄積を踏まえて誕生したのがYZR500(0WC1)、1990年型である。出力アップとともにディメンションも一新。ヘッドパイプ位置はライダー寄りになりキャスターも変更。これを駆ったレイニーは、全15戦中優勝7回を含む表彰台14回で初のチャンピオンを獲得し、ヤマハの通算6度目のメーカータイトルに貢献した。

情報のデジタル化とその共有によって戦闘力アップを図った0WC1は、1990年代のWGP振興と、当時のヤマハの企業フィロソフィーにとって、欠かせぬ存在となっていった。

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