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XS-1 開発ストーリー

展示コレクションの関連情報

開発ストーリー

ヤマハ新時代を築いた"4ストローク"の選択

 ヤマハ発動機が、創業以来初めてとなる4ストロークモデルXS-1を発表したのは、1969年「第16回東京モーターショー」でのことだった。この年のモーターショーは、アポロ11号の月面着陸を受けて各メーカーが宇宙をテーマにした未来感溢れるブース演出を競う一方、展示車両では東名高速の開通を反映したスポーツモデルの数々が注目を集め、クルマは実用からスポーツへ。一足早くスポーツにシフトしていた二輪車は、さらに大型化・高速化へと向かう……。そんな新しい流れが顕著に表れていた。
 XS-1が登場するまで、ヤマハモーターサイクルの最大排気量車は、2ストローク・350ccエンジンを搭載したR1やR2、R3だった。最大の輸出先であるアメリカから、より大型でパワフルなモデルの開発を望む声が聞こえ始めた頃、社内では2ストローク・2気筒・650ccエンジンの開発を進めていたが、現地市場調査の結果、ビッグバイクについては2ストロークよりも4ストロークへの期待が高いことがわかった。
 アメリカのモーターサイクルファンにとっては、図太く響く4ストロークの排気音こそパワーの象徴であり、ビッグバイクらしさだった。また、サンフランシスコなど西海岸地域で大気汚染の問題がクローズアップされ、スモッグ対策を求める機運が高まったことも4ストロークエンジンの追い風になったといえよう。
 一方国内に目を向けると、高速道路時代の幕開けを象徴するように、ホンダから4ストローク4気筒のCB750、カワサキとスズキからは2ストローク3気筒のマッハIIIとGT750が相次いで発売され、一部ファンの間では早くも新しい市場が形成されつつあった。これらのモデルは「スーパーバイク」または「スーパースポーツ」と呼ばれ、二輪専門誌も毎号のようにその関連記事を掲載し、話題を盛り上げていた。
 しかし、XS-1の企画は、当初から他社のスーパーバイク路線と一線を画す。開発のポイントとして挙げられた「フレキシブルな高性能車」「350cc並みの軽快なフィーリング」「価格的にも身近なもの」という要素に加え、参考としてイギリスのトライアンフ・ボンネビル650を研究した事実をとっても、めざすところの違いは明らかだった。

4ストロークへの挑戦と試練

 ヤマハモーターサイクル初となる4ストロークエンジンのレイアウトをバーチカルツインとしたことも、トライアンフの存在が色濃く影響している。「アメリカのハイウェイではトライアンフの走りが一番安定していて評判もいい」という調査結果に加え、国内のファンからもトライアンフはステイタス性の高いブランドだったからだ。
 しかし、そのエンジンの開発は想像以上に困難を極めた。ヤマハ発動機に4ストロークの技術やノウハウがまったくなかったわけではない。トヨタ自動車とともにトヨタ2000GTを共同開発した経験があり、当時の磐田工場ではその生産も行われていた。XS-1開発エンジン開発チームはトヨタ2000GTの開発を担当したスタッフのもとに通い、たびたびアドバイスを受けた。それでも、クルマとモーターサイクルではエンジンの性質も構造も大きく異なるため、直接な関連性が少なく、最初の試作エンジンに基本設計の一部とピストンを流用することしかできなかった。
 しかも、試行錯誤を重ねて作り上げた試作第1号エンジンは、目標の53馬力に遠く及ばない、実測14~15馬力ほどのパワーしか出せなかった。どうすればエンジンの性能が上がるのか。再び手づくりで性能向上に取り組んだが、同時に熱、耐久性、動弁系、オイル漏れ、エキパイ焼け、振動などの問題が次々に発生。ひとつの問題に対策を施せば、その影響で違うところに新たな問題が発生する状況を繰り返した。それでも、エンジン設計チームはあきらめることなく深夜まで図面に線を描き続け、その対策部品を徹夜で作ってもらうために、たびたび生産試作部へ駆け込んだ。
 一方、車体設計チームも2つの大きな課題を抱えていたが、そのうちバーチカルツインエンジンの宿命である振動には、ラバーマウントを多用することで対応。そしてもうひとつ、取り回しの軽快さと車体の振れに関する問題は、車体設計チームと走行実験チームが二人三脚でテストと対策を繰り返しがら解決していった。
 当時、開発チームの中心は、20代から30代前半の若い技術者たち。XS-1の開発コンセプトである「スリムな車体」と「軽快な走り」を追い求め、デザインを犠牲にしない作りこみで実現させたのは、彼らの飽くなき情熱だった。

若手技術者の情熱が生んだ長く愛される名車"ペケエス"

 "ペケエス"の愛称で親しまれたXS-1。その魅力をひと言で表すとしたら、多くのファンが「独特のたたずまい(=スタイル)」を挙げるに違いない。キャンディグリーンのタンクに白いラインが引かれた細身のタンクがその象徴である。排気音は軽快で、車体を震わせる鼓動さえ味わい深い個性だった。
 走行性についても同様。テストコースで測られる動力性能と異なるモノサシを持ち、中速域では多くの人々を気軽に楽しませ、高速域においては腕に自信のある者たちが力と技でねじ伏せて走る楽しさがあった。ビッグバイクと呼ばれるカテゴリーのなかで、独特の存在感とオーソドックスなスポーツスタイルを貫いたXS-1は、「すごいバイク」ではなく、あくまでもどこまでも「美しく、楽しくバイク」なのだ。

※このページの記事は、2004年1月に作成した内容を元に再構成したものです。

開発者インタビュー

PROFILE
五十嵐 清夫氏 (いがらし・きよお)
XS-1のエンジン設計チーフ

藤森 孝文氏 (ふじもり・たかふみ)
XS-1の走行実験担当

松島 利則氏 ((まつしま・としのり)
XS-1の車体設計チーフ

XS-1の高い評価は、オーナーのみなさんが築き上げてくれたもの。感謝の気持ちでいっぱいです。

五十嵐:XS-1は、ヤマハ発動機にとって初めての4ストロークモデル。そのエンジン設計をやらせてもらったことは、大変ありがたく思っています。チャンスをくださり、指導をしてくださった先輩方。苦労を共にし、XS-1の完成度を高めてくれた仲間たち。そして何より、XS-1をいつまでも大切に乗ってくださっている多くのオーナーの方たちに対して、心から感謝の気持ちでいっぱいです。

藤森:私の場合は、XS-1の開発によって、大切なことをたくさん学ばせてもらったという印象が強いですね。当時の私は、腕利きの先輩ライダーに囲まれた、いわば走行実験チームの丁稚みたいな立場でした。XS-1開発チームのみんなと一緒に苦労しながら、改めて思えば、ヤマハ発動機の未来をどう作っていくのかというようなことを学んでいたのだと思うのです。

松島:私はXS-1の開発が終わって間もなく、設計バタケを離れて品質管理に異動してしまいました。このバイクが高い評価を受けたのは、そのあと、もう少し時間が経ってからのことだったと思います。XS-1の開発では、車体性能はもちろんですが、"どうやって物を作るか=生産工程"を考えて設計しなければならない、という基礎的な経験を積んだと思っています。

五十嵐:初めての試作エンジンができ上がって、火を入れた時の感動は格別でしたね。回り始めた瞬間、「おお、やった!」と歓声が上がりました。まるで初めて図面を引くような若い設計者と、ゼロから線を引いた4ストロークエンジンですから、みんなの思いはひとしおだったわけです。ただ、性能的には目標の3分の1もパワーが出なかった。

藤森:確かに、図面上で考えていたエンジンと実際にできたエンジンはずいぶんかけ離れていました。それで、火入れした日から手作り、手直しで性能アップの日々が始まる。社内でオートレースのエンジンを触ったことのある人にいろいろ教わったり……。それから試作や熱処理、2000GTの設計者など、社内はもちろん社外のタイヤメーカーさんやサスペンションメーカーさんからも教わることが多かったですね。苦労したぶん勉強できたということでしょう。

五十嵐:仕様が変更されるたびに発行される改訂通報という書類が、XS-1の場合2,500枚発行されましたので、少なくとも2,500回の試行錯誤があったわけです。

松島:デザインのほうは、GKデザイン(現・GKダイナミックス)の石山篤さんが担当されたのですが、あの方も妥協をしない。一方でこちらも必死ですから、時には正面からぶつかることもありました。なかでも印象的だったのは、サイドカバーのデザイン。アメリカのムスタングマッハ1の写真を持ってきて、サイドのエアインテークを指差しながら「こういうイメージなんだ。だからもっと絞ってほしい」と。こちらが「これが限界だ」と言えば、「いやもっとできるはずだ」と、いつまでもそれが続くんです(笑)。その他にもクランクケースカバーのバフがけや、スリムなフューエルタンクなど、デザイン上のこだわりは数え切れないほどありましたね。

五十嵐:発売した後もいろいろありました。その頃私は「申しわけありません、申しわけありません」って謝ってばかりいた気がします(笑)。特にオイル漏れの問題が発生した時は、たくさんの人に迷惑をかけてしまいました。特約店さんからクレームの連絡が入ると、リュックサックにシリンダーヘッドを入れて現場まで出かけて行き、販売店さんの店頭で対策パーツを取り付けながら、「ご迷惑をおかけしました」と土下座をして謝った。

藤森:そうそう。その対策のために設計と実験のチームが集まって、日が暮れるまで作業しました。私はブーツのまわりにオイルの飛散を防ぐウエスを巻いて、朝から晩まで谷田部のコースを走っていました。いまでこそ感動という言葉を使って、バイクに味付けをしていく実験の仕事が確立されていますけれど、当時は文字どおり壊れるまで走り回るのが仕事。"どんな楽しさを出すか、どんな味付けをしていくか"うんぬんより、性能と耐久性を引き出すことが第一条件でしたからね。

五十嵐:でも、XS-1がお客さまに愛されているとわかって、報われました。いつ頃でしたか、XS-1が60台ほど集まるオーナーミーティングに招かれて、本当にきれいに乗ってもらっている姿を目の当たりにした時の感動はいまも忘れません。フィンの一枚一枚まできれいに磨き上げられていて、XS-1の開発に携わって本当によかったと思いました。

松島:本当にそのとおりですね。ありがたいことです。

藤森:いろいろな意味で、XS-1はかけがえのないモデル。私個人にとってもヤマハ発動機にとっても、楽しさを作り込む姿勢を認識した原点だと思いますし、YZF-R1へと続くヤマハ4ストロークスポーツの技術と精神は脈々と受け継がれています。私は一線を退きましたが、いまでも若いテストライダーたちに「XS-1」を教材として使い、「楽しさとは何かを感じてほしい」と言い続けています。


※このページのプロフィール、および記事内容は、2004年1月の取材によるものです。

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