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FZ250 PHAZER 開発ストーリー

展示コレクションの関連情報

開発ストーリー

新しい4ストローク250cc開発への挑戦

 1985年4月1日、ヤマハ発動機は、当時流行の"レーサーレプリカ"とは一線を画すニューモデル、FZ250Phazerを発売した。斬新なデザインで軽量・コンパクトな車体に、超高回転・高出力型の4ストローク・4気筒エンジンを搭載した意欲作である。
 1975年の運転免許制度改正により、自動二輪免許が中型限定(400cc以下)と限定なしの2段階に分かれて以降、スポーツバイク市場は"中型免許"で乗れる最大排気量・400ccモデルが主役となっていた。しかし1980年、ヤマハ発動機が2ストローク技術の粋を集めて作り上げたスーパースポーツRZ250が大ヒット。それを契機に"レーサーレプリカ"ブームが巻き起こり、250cc・2ストロークモデルは一躍スポーツバイク市場の主役に躍り出た。
 とはいえ、もともと250ccクラスは車検が不要で車両価格や保険料、税金も400ccより安価なため、魅力的な商品がそろえば、さらに需要拡大が望めるカテゴリーである。人気の火付け役はRZ250だったとしても、魅力的な商品であれば、2ストロークだけにこだわる必要はない。1982年、ホンダが投入したVT250Fは、GPレーサーNR500の技術をフィードバックした250cc・4ストローク・Vツインエンジンで注目を集め、スズキのGSX250Eも"カタナ"シリーズのデザインにモデルチェンジして好評を博した。
 ヤマハ発動機も、RZ250の後継モデルとしてYPVS付きのRZ250Rを発売する一方、XS250、SRX250Fなどを投入し、4ストロークモデルのラインナップ強化をはかったが、VT250に待ったをかけるほどの勢いは得られなかった。
 250ccの手軽さと4ストロークの扱いやすさを兼ね備え、スポーツバイクのエントリークラスとしてもっとも需要拡大が見込まれるカテゴリーだけに、なんとしても早く次の一手を打ちたい。そんな期待を背負って登場したのが、FZ250Phazerだった。

基本構成のすべてがパフォーマンスのために有機的に結合

 開発のポイントは2つ。2ストロークに匹敵するエンジンパフォーマンスの実現、そしてもうひとつ、"レーサーレプリカ"と異なる感覚の速さを表現することだった。
 本来、エンジンの排気量が同じであれば、2ストロークのほうが4ストロークよりも高出力を得やすい。単純に言えば、ピストン1往復で1回爆発するエンジンと、ピストン2往復を要するエンジンの差である。
 そこでFZ250Phazerの技術陣は、レッドゾーン17,000r/minという超高回転型の水冷・DOHC4バルブ・並列4気筒エンジンを新開発。RZ250RRやNS250R、RG250γなど当時の2ストローク最高峰モデルに匹敵する45PS/14,500r/minを実現した。さらに新設計フレームは、軽量かつ強度剛性特性に有利な角型断面のワイドなダブルクレードルタイプで、低重心化とマス集中化のためエンジンを45度前傾で搭載。FZ750の"GENESIS"思想をそのまま引き継ぐモデルとなった。
 これだけではない。エンジンや車体のすべてが、250ccというカテゴリーのなかで最高のパフォーマンスを発揮できるよう作り込まれている。例えば、エンジン容量の28倍に相当する大型エアクリーナーと、ストレートな吸気管で結ばれたダウンドラフト4連キャブレター。排気脈動効果を効果的に引き出す4into1マフラー。同軸にレイアウトされたウォーターポンプとオイルポンプ、エンジン幅短縮と冷却性能を両立させたセミドライタイプのシリンダー、ポンピングロスを低減するクランクケースへのエアスルーホール設定。
 またデザイン面についても、軽量・コンパクトな車体構成を生かし、従来の"レーサーレプリカ"とは異なる斬新なアプローチがなされた。スムーズな面構成とロープロファイルが特徴のハイブリッドシェイプカウルは、フロントシールドからハロゲンヘッドライト、フラッシャーランプ、タンクカバーまで一体化したデザインで、CdA値0.29以下という高いエアロダイナミクス効果を実現している。
 そして1985年4月、デビューしたばかりのFZ250Phazerは、新設されたMFJニュープロダクションレース(NP・F)で上位を占めるなど、さっそく運動性能の高さを証明。さらに斬新なデザインが新しいユーザー層開拓にも貢献し、ヤマハ4ストローク250ccモデルの代表機種として市場を牽引。1986年12月、FZR250に後を譲るまでの2年間で、約25,000台が出荷された。

※このページの記事は、2005年2月に作成した内容を元に再構成したものです。

開発者インタビュー

PROFILE
寺下 伸志氏 (てらした・しんじ)
エンジン設計担当

小原 直己氏 (おはら・なおき)
車体設計担当

鶴谷 知弘氏 (つるや・ともひろ)
走行実験担当

出力値は社内でもマル秘扱いだった

鶴谷:発売は1985年。もう本当に一昔の話になってしまいましたね。

寺下:あの頃は俗に言う"HY戦争"の後で、若い人たちに新しい挑戦をさせようという雰囲気が社内に強くありました。それで次世代のスポーツに何が必要か? というようなことを日々熱心に論議していた頃ですね。

小原:1983年の秋頃ですか。浜名湖近くの施設に若い社員が合宿して議論した。その模索のなかから出てきた結論のひとつが、前傾低重心エンジンという考え方で、それがジェネシス思想に繋がっていった。

鶴谷:そう、あれがジェネシス誕生のキッカケですね。でも、初めて具体的にジェネシスを取り入れた欧州向けFZ750のチームと、我々国内のFZ250Phazerチームの間で、プロジェクトを進めるためのリレーションは特になかったよね?

小原:まったく別進行だった。それとは関係なく、我々は軽量な250cc・4ストロークを作るということで、そうとう気合が入っていました。

寺下:2ストロークに負けない4ストロークを狙って、並列4気筒にした。5バルブも考えたけれど、1気筒当たり62ccだとロス馬力が大きくなるので、最終的に4バルブのほうが効率的だと判断したんです。

小原:エンジンの計画図を書いている時、寺下さんのところに役員が覗きに来たとか?

寺下:そう。担当重役が来られて「もちろんVツインだよね」と言われた。そこで、私は「Vツインにヤマハ発動機のオリジナリティはありません。我々の個性が表現できる、新しいものにチャレンジしています」と答えて納得してもらいました。でも出力値は内緒でした。

鶴谷:とにかく凄いエンジン。初めて試作エンジンで走った時の感覚は、かつて経験したことのないものでした。14,500r/minで最高出力を搾り出す超高回転型なので、2次減速比をどの程度にすればよいか全然分からなくて、いろいろ試して……、テスト走行ではおもしろいほど吹き上がった。

鶴谷:社内のプレゼンテーションでも、エンジンをかけて音を聞いてもらいました。

寺下:会議室で役員さんたちに説明した時だね。これがフェーザーだ! ということをわかってほしくて……。「エンジンかけてもいいですか?」なんて聞いたら当然NGだろうから、独断でいきなりエンジンを回して、14,000~15,000r/minくらいまでの音を聞いてもらった。あっという間ですよ。キューンという音を出して、すぐ停止した。一瞬、シーンとなりましたね。

小原:馬力の数値は、社内でも本当のことは言わなかったでしょう。

寺下:情報漏れを避けたくて、社内でも40馬力で通していた。そして発表直前、カタログの印刷直前に、45馬力に変更したんです(笑)。

小原:軽量・コンパクト化の作り込みは、エンジンも車体も、お互い大変でしたね。

寺下:あれはつま恋でプレス発表会をやった時だったかな。クランクの軸受けについて担当者から会社に電話があった。軽量化のため4点ジャーナル軸受けで設計していたのですが、生産直前に問題が出て、通常の6点ジャーナル軸受けに変更したんです。それを忘れていて、どう説明したものか、少々焦りましたね。

小原:エンジンの重量はどうなったんですか?

寺下:それでも、設計目標値54kgが、実際には52kgまで軽量化できました。


ヤマハらしさを主張できた思い出の1台

鶴谷:ところで、エンジンを含めた車両全体の耐久テストも、相当徹底してやりましたね。

小原:谷田部(自動車試験所)の高速耐久テストなんて、すごくハードでした。

鶴谷:バンクがついたオーバルコースを全開で走る。車体の安定性はよかったけれど、前後16インチのタイヤにずいぶん気を使いました。経験のない世界でしたからね。タイヤのマッチングの部分かな。

寺下:エンジンは無負荷で17,000r/minテストもやりました。

鶴谷:ギア抜けや後輪が路面から離れた状況を考慮してのことですが、17,000回転なんて現実にはまずありえない、厳しい条件設定。エンジン設計の人たちは、エンジンが悲鳴を上げているみたいで、イヤだったでしょうね。

寺下:作り込みに自信はあったけれど、新しいこと、初めてのことが山盛りのエンジンでしたから、無茶はしてほしくなかった(笑)。点火プラグはM10のロングリーチ、コンロッドは通常のSC(炭素鋼)材ではなくSCM(クロームモリブデン鋼)材で大端径27mm、4mm径バルブステム、インナーパッド式の直押し動弁系とかね。

鶴谷:M10ロングリーチ型プラグは、海外メーカー製品を使ったんですよね。

寺下:国内メーカーに合うモノがなくてね。フォルクスワーゲンのレース部品として供給されていたプラグを転用することにした。

小原:ヘッドまわりもFZ750とかなり違います。

寺下:FZ750はラッシュアジャスターのスペースを取ってあるけれど、FZ250はギリギリまでスペースを詰めて割愛した。バルブステムも、それまで5.5mmしか経験がなかったけど、4mm径に挑戦。小径の大端メタルも部品メーカーに依頼して作り込んでもらいました。

※ラッシュアジャスター=バルブクリアランスを油圧で調整するためのパーツ


鶴谷:丸みのあるクランクケースカバーも特徴でした。

寺下:騒音対策でカバーを二重にすると重量が増えるので、剛性を確保できる球面形状にしたんです。ちょうど、3D CAD(Computer-aided Design)で設計できるよう環境を整えつつあったんですが、我々は手書きで図面を引いていました。いち早くCADを使ったFZ750のエンジンと見比べると、全体の雰囲気が微妙に違うような気がしますね。

鶴谷:吸気系でも新しいトライをやりましたよね。可変吸気管とか。

寺下:うん。アルミでファンネルを作って、オン/オフ切替式の可変吸気管を試した。でも4ストロークは低速でトルクがあるから、結局使わなかった。

鶴谷:キャブレターでは対応しきれなかった部分もあるでしょう。今ならインジェクションがあるからいいけれど……。可変吸気管をあきらめた分、大きなエアクリーナー容量の確保が必要となり、車体設計への要求が増えたんじゃないですか? 

小原:確かに、その影響は大きかった(笑)。というより、前傾低重心エンジンを考えると必然的にあの形のフレームになる。苦労したのは、そこからの地道な軽量化と、振動対策でした。エンジンの懸架方法をいろいろ調整して、ようやく3点懸架で解決できたんです。そうそう、フレームのなかにラジエターの冷却水を通す方法も、新しいアイデアでしたね。

鶴谷:あれは、ラジエターを大きくするのと同じくらい、よく効いたよ。

小原:脱着する側のフレームに冷却水を通す方法は特許があって、我々は脱着しない本体側のパイプに冷却水を通す方法を採ったんですが、確かにうまくいったと思います。

鶴谷:外観のデザインや仕上げにも、ずいぶん気を使いましたね。

小原:空力に配慮したカウルの設計、燃料タンク容量12Lの確保とニーグリップ性の両立、ビルトインフラッシャー、タンクとカウルの合わせ目をきれいに仕上げる方法など、新しいことにたくさんチャレンジしました。アルミダイキャスト製のフートレストも、ヤマハ量産車初でしょう。

鶴谷:アルミダイキャスト製フートレストかあ。最初のテスト品は強度が足りなくて、ちょっと蹴っただけで壊れてしまい、走行テストする前に10回くらい蹴って試して乗ったことを覚えています。もちろん、すぐに品質改善されましたけどね。

小原:でも、そういうことの積み重ねによって、皮ツナギを着なくても似合うスーパースポーツが完成した。プロジェクトチーム内でいろいろ議論はあったけれど、すごくヤマハ発動機らしい、オリジナリティのあるモデルになった。それは今も胸を張って言えます。

鶴谷:初めてのことが多かった、つまり知らない世界がたくさんあった。すると恐いもの知らずの強さで、どんどん行けちゃうんですよ、人間って(笑)。

寺下:若いスタッフが一丸となって、ヤマハらしさを存分に表現できた、とても思い出に残るモデルです。


※このページのプロフィール、および記事内容は、2005年2月の取材によるものです。

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