コラムvol.31
ヤマハのレース活動50年の歴史をコラムでご覧いただけます。Vol.31「クロスプレーン型クランクシャフトの投入」
それは2003年のクリスマスだった。ヤマハ本社から東へ15分、静岡県袋井市にあるヤマハテストコースに、エンジンスターターの音が鳴り響いた。だが、初めてマシンに載せたばかりのエンジンは、なかなか目を覚さまさない。新型エンジンの特徴に起因する始動トルクの増加は、予想どおりに多少の始動のコツを必要としたが、しばらくすると、聞き慣れない独特のサウンドを残してふたりの開発ライダーがコースへと飛び出していった。
冷たい空気が張りつめるなか、シェイクダウン走行を終えて戻ってきたのは、吉川和多留と藤原儀彦。ガレージにマシンを止め、開口一番「このエンジンには新しい可能性を感じるね」と語り、エンジニアは安堵の表情を浮かべた。2004年シーズンに向けて開発を進めていた新型YZR-M1、「0WP3」の誕生である。
MotoGPがスタートした2002年、ヤマハは並列4気筒エンジン搭載のYZR-M1を投入。開幕戦で3位表彰台に上り、シーズン2勝を飾った。翌2003年はいっそうの躍進が期待されたが、エースライダー、アレックス・バロスが開幕戦で負傷。その後も歯車が噛み合わないままシーズンが続き、表彰台に上ることができたのは1度、フランスGPの3位だけだった。1973年、GP500に初参戦して以来、最高峰クラスでのワースト記録である。
この頃、ライバルはV型5気筒マシンで連戦連勝を重ねていた。「規則上4気筒も5気筒も重量制限は同じ。そこを巧みに利用し、まんまとしてやられた」。まったく予想外の展開に、ヤマハのエンジニアたちは歯軋りしかなかった。
この閉塞状態を、なんとか打開しなければ……。V型5気筒マシンに対抗する為には、更に上を行くV型6気筒を開発すべしという過激な意見もあった。しかし、激しい議論の末に出した結論は「ライバルと同じことをやっても、相手はさらに進化しているから勝てるとは限らない。むしろ、我々が蓄積してきた並列4気筒をコンパクトに作るノウハウを生かし、その中からブレークスルーを生み出すべきだ」というものだった。
500cc時代のGPロードレースでは、滑り出したリアタイヤが急激にグリップを回復し、その瞬間バランスを失ってしまう「ハイサイド」による転倒が多かった。しかしMotoGP時代に入ると、電子制御系の進歩などからハイサイドは減少し、逆にフロントから転倒するケースが増えてきた。ヤマハの技術者たちは、そこが今後のマシン開発の要になるのではないかと感じていた。
フロント荷重を確保するには、構造上、V型4気筒より並列4気筒が有利とされる。並列4気筒はエンジン自体の前後長を短くできるため、その搭載位置やタンクの位置、排気系レイアウトの自由度も大きいからだ。並列4気筒にこだわって、独自のメリットを活かす。誰もが知恵を絞り始めた。
具体的な目標は、ライダーの入力、スロットル操作に対し、リニアなトルクを創出できるエンジン。特に「コーナー旋回が終わってマシンがフルバンクしている状態、つまりマシンが一番不安定な状況にある時でも、挙動を乱さず(不安なく)スロットル操作できる」ことである。エンジンから創出されるトルクは、必ずしもスロットル開度と一致しない。特にMotoGPのような高回転エンジンでは、往復運動するピストンやコネクティングロッドによる慣性トルクがスロットル開度とは無関係に発生するため、スロットルでトルクをコントロールしようとするライダーにとっては厄介なノイズとなっていた。ところがクランクシャフトを真ん中で90度捻ると、この慣性トルクはエンジンの内部で打ち消しあい、純粋に燃焼ガスによるトルクを取り出すことができる。それが90度クランク、クロスプレーン型クランクシャフトを採用した理由であり、新しい並列4気筒エンジンの武器となった。
0WP3は、その後テスト走行を重ねて調整が施され、シェイクダウンから1ヵ月後の2004年1月末、マレーシアのセパンへ持ち込まれた。この時、初めてライディングしたバレンティーノ・ロッシは「Sweet」と絶賛。その言葉どおり、開幕戦の南アフリカを優勝で飾ると、第15戦オーストラリアまでにシーズン8勝を記録。最終戦を待たずしてチャンピオンに輝いた。ヤマハにとって1992年のウェイン・レイニー以来12年ぶり、通算11回目の最高クラス制覇である。
そして後にクロスプレーン型クランクシャフトは市販車「YZF-R1」へとフィードバックされ、2009年世界スーパーバイクチャンピオン獲得(ベン・スピース)にも貢献した。