Yamaha Motor Revs Your Heart

Yamaha Day

Heritage ヤマハブランドの伝統

18F1でヤマハエンジンの可能性を証明

50周年記念誌 挑戦と感動の軌跡 資料集 レース活動の歴史 モータースポーツの頂点、
F1世界選手権への挑戦は9年間にわたった(写真はD・ヒル)

モータースポーツ文化をリスペクトし、その発展に力を注いできたヤマハの新しい挑戦が自動車レースの最高峰F1への参戦だった。DOHC 5バルブ3,489cc、最高出力600馬力以上を発揮するV型8気筒0X88で参戦し、V型12気筒0X99、V型10気筒0X10A、0X11Aヘと挑戦を続けた。

私のHeritage

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F1参戦への布石は1982年に始まっていた。

モビリティ技術本部 AM開発統括部 AM第2技術部 飯倉 雅彦さん

当時、自動車E/G事業部(現AM統括部)においては、OEMビジネスの発展を狙い独自戦略技術獲得の為に5バルブ(以下5V)技術を用いたレースE/Gの開発が企画され、F2向けV6-2Lの0X66が誕生した。当時の企画資料には、F1やINDYへの挑戦構想が書かれており驚かされた。

私が入社した1985年に0X66は国内F2と富士グランチャンピオンレースに参戦、翌年後者のレースでチャンピオンを獲得しヤマハの技術力の高さを示していた。洗練された造形のE/Gを見て格好良いと感じた事を覚えている。当時は手書き図面で製造技術も今の比では無い中、それは機能美としてあるべき姿だったのかもしれない。

その後、F3000ではコスワース社のDFV(V8-3L)を5V化した0X77でレース活動を継続。同社のF1用DFZ(V8-3.5L)を5V化するP/Jも始まり、その実力が確認出来た事もF1参戦への自信に繋がった。私はF3000の開発から設計者の一人として加わり、1988年に鈴木亜久里選手と共にチャンピオンを獲得したが、翌年から5Vが禁止され0X77は行き場を失いDFZ改の話も頓挫した。

そこで単独でのF1参戦を決意しV8-3.5Lの0X88を短期間で開発。1989年に鈴木亜久里選手と共にザクスピードチームにE/G供給する形でF1に参戦する事が出来た。

その後V12、V10と開発を継続し、1997年のハンガリーGPで最後のV10となる0X11Aが終始首位を快走!最終周に抜かれ2位となったのがF1での最高成績であり、その年でF1活動は終了した。

F1で得た技術は、その後のE/G開発やモトGP、OEM先のレース支援等で活用された。

YA-1

大学時代の記憶が間違っていなければ… 1985年鈴鹿Big2&4。 スポンサーも付かない真っ白なボディーのF-2マシン。エアインテークに赤いYAMAHAの文字。ドライバーはジェフ・リース。期待とは裏腹にあっという間にリタイアしてしまった。翌年、同じBig2&4、真っ赤なCABINカラーのマシンに乗った松本恵二はトップでチェッカーを受けた。感動の瞬間だった。そのシーンはそのままCABINのCMに採用された。思えばあれがF-1に向けての第一歩だったんだなーと思う。あの頃は毎年鈴鹿や富士にレースを観に行ってたんだけどなー。また行きたいな。

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