11 経営危機の中で、第三の柱となる新事業領域にチャレンジ
獲得した技術を「次」に活かせ! エンジン部品の共用で船外機を開発
二輪車、マリンに続く第三の柱を築くため、新事業領域へのチャレンジが検討された。
候補に挙がったのは、汎用エンジンや瞬間湯沸かし器、ペダル付き原付二輪車など。最終的には北米で人気が高まりつつあったスノーモビルの開発が決定した。
しかし、温暖な静岡でのスノーモビル開発は困難を極めた。
年間を通じてほとんど雪が降らないため、本社に近い海岸の砂を雪に見立ててテストを行うこともあった。
北米テストに持ち込んだ試作機は現地のテストライダーから酷評を受けたが、一つひとつ課題をクリアすることによって、スノーモビル第1号製品「SL350」(1968年)を発売した。
参照:Times of Yamaha
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スノーモビル第1号製品開発時にテストを行った場所は?
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スノーモビル事業黎明期に関わるOBの方へのインタビュー
ヤマハのスノーモビル事業参入に貢献された先人たちの話から、いまも我々に宿っているはずのDNAを探り求めるために、立ち上がり当時、製造に携わられたお2人の対話から特に印象に残る部分をピックアップしました。
ヤマハ発動機OB 村上 猶一氏
昭和31年入社
製造事業部磐田第二工場長、鋳造事業部磐田第三工場長など歴任
平成6年 浜北工場(株)社長
ヤマハ発動機OB 石原 巌氏
昭和35年入社
スノーモビル生産課 職長(現工長職)、第5工場新工場立上など歴任
役職定年後は海外生産部にて、物流中心に海外指導
<スノーモビル事業参入時の社員の受け止め方と創意工夫>
村上氏:僕はスノーモビル第一号機のシュラウド生産をしていた新居工場に生産課長として昭和44年7月1日から行ったんです。そうしたら、とにかくこのシュラウドへの異物の混入が問題となっていました。異物を「物入り」と称して、それは全部磨いて、もう一回吹き直すんです。それを毎日、杉山工場長以下スタッフが提示後、11時、12時までやりましたかね。明日の生産のために、って言って。
石原氏:今はメーカーさんに、あれ直せ、これ直せ、という話になってますけど、出ていくのはヤマハのブランドですから、「絶対自分たちでやれ」って言って、それは徹底しました。出ていくのはヤマハのブランドだから。他所さまの責任とか、そういうのは関係ないからって。あの当時はみんな、そんな修正のやり方をやりました。
<スノーモビル事業参入時の品質に対する姿勢>
石原氏:スノーモビルの事業化の話が出た当時、カナダなんかへ行くとスノーモビルが当たり前に走ってると聞いたため、事業化も当たり前のつもりでやりました。ただ、季節生産だから、そのときの、従業員の異動をするのが、一番気の毒だなあと思いました。事業化後しばらくして、「何とかしてくれ」と言って、たまたま、ゴルフカーが出たため、冬の間はゴルフカーやって、夏、スノーモビルやりましょうということで、セットにしてやったのが昭和50年頃でした。
村上氏:ゴルフカーとスノーモビルの生産をセットにすることで、夏冬の工数を平準化して従業員が一つ職場で働けるわけです。
松本営業所OB
MC営業として入社して最初の勤務地が長野県松本市。冬は降雪でバイクあまり売れず、商材はスノーモービル中心。週末はスノモのレースに駆り出され、雪に埋もれて、コースマーシャルとして旗振りをしていました。営業車は1トントラックでしたが、冬、空荷の時はスリップ防止のために在庫のスノモを重石代わりに積んでいました。
あっきー
15年ほど前にスノーモービルのエンジン設計を担当しました。
当時はスノーモービルを”キャタピラが付いた乗り物”と言ったらこれは”トラック”と叱られたのを思い出します。
冬には士別テストセンターに(評価会の名目で?)連れて行っていただき、スノーモービルとその乗り物で味わう感動をたくさん教えていただきました。
ある時は腰まであるような深雪の中をマリンジェットのように走る感覚と立ち止まった時の静寂は忘れられません。
スタック(空回り)して皆で汗だくになりながらも笑い合って助け合う。というのは少し泥臭くも感じますが、ヤマハらしい開発スタイルを象徴していたと思います。
小島睦人
スノーモービル事業にたずさわれたのは、最高の幸せです。