08, 09 船外機とボートでマリン事業に参入
獲得した技術を「次」に活かせ! エンジン部品の共用で船外機を開発
視察のためアメリカに足を運んだ川上社長は、水上レジャーの人気を目にして、「いずれ日本でもこうした光景が普通に見られる時代が来るだろう」と確信した。そして、船外機の開発にチャレンジするとともに、アーチェリーの弓にも使われていた新素材FRPの研究に取り組むよう指示を飛ばした。
1960年、「YA-1」の部品を共用したヤマハ船外機の第1号製品「P-7」、さらにはFRPの艇体を持つモーターボート「RUN13」と「CAT21」を発売し、後に第二の柱として成長するマリン事業への参入を果たした。
参照:Times of Yamaha
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70年代の初頭からはじまるヤマハのマリンエンジン事業の成長期を走りぬけた先人たちの話から、いまも我々に宿っているはずのDNAを探り求めるためにYMCマリン事業本部が2016年に制作したビデオ「不撓不屈」から特に印象に残る言葉をピックアップしました。同ビデオはYDALにて視聴可能(ASSET ID:AP000008726)です。
ヤマハ発動機OB 綱本 貫一氏
1970年入社。同年、東京支社ボート営業技術課に配属。以降マリンエンジン事業部海外サービス、欧州駐在、商品企画、海外営業等を歴任。
9月から始まる海苔の漁のために売る船外機が8月になってもまだ完成してないのですよ。
そこでとにかくエンジンは作って出荷しちゃう。出荷すると。後は部品と多少の人手を渡すから何とかしろと言う訳です。お客さんが来てくれないところには仕方ないからエンジンと部品持って、お客さんが漁から帰ってくるのを待って。くそ寒いんですよ、海苔のシーズン。真冬ですから。改修している最中にね、怒ったお客さんがこんなエンジン持って帰れ、俺はもうヤマハのエンジンいらないと、いきなり目の前で桟橋から捨てられたこともありましたけどね。
我々現場を走り回って、お客さんと会話をすると、お客さんが何を求めているか、何を怒っているのかを全部聞いて、その商品にフィードバックすることが出来たのです。
その時はお客さんもハッピーですけど、我々も非常にハッピーでしてね。大きなクレーム出して、社員が必死になって働くと、その事業は伸びるんですね。やっぱり痛い目にあわないと人間って強くならないですよ。
ヤマハ発動機OB 安川 力氏
1954年、日本楽器製造に入社。二輪、四輪の研究開発等を経て1971年にヤマハ発動機の取締役(船外機担当)就任。三信工業代表取締役等を歴任。
船外機の場合はね、海の上ですから全開でざっと走るわけ。それも一日十何時間も。それで水もかぶる。とんでもない使われ方のエンジンなんですよ。設計者が実際に出て行って、実際のサービスをやる人たちと一緒になってね、悪いところを「こんなになっているんだ」と目に焼き付けて帰ってきて、エンジンを直す。そのやり方が船外機の開発のスタートでした。