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Yamaha Day

Heritage ヤマハブランドの伝統

07 日本最大級のレースで鮮烈デビュー

品質と性能を証明せよ!会社創立10日目のレース参戦

第3回富士登山レース

ヤマハ発動機の創立は1955年7月1日。
当時、日本には約200社もの二輪車メーカーが存在し、その最後発となるヤマハは自らの製品の品質や性能の高さを市場に知らしめる必要があった。
そのステージとして選んだのが、会社創立からわずか10日目に開催された「第3回富士登山レース」。
短期間で「YA-1」の性能向上に取り組み、また全国から選抜したライダーを猛特訓して鍛えるなど必勝体制で臨み、大観衆の歓声を受けて、無名のヤマハがデビュー&ウィンを飾った。
この鮮烈なデビューで一気に市場に存在感を築いたヤマハは、それを追い風として二輪車事業の基盤づくりを加速していった。

参照:Times of Yamaha
*掲載された写真の中には現在の法規に合わない場合があります。

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ヤマハ発動機としての最初のレースは創立後何日目に開催されたか?

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ヤマハライダーOB取材

長谷川 弘さん(元ヤマハファクトリーライダー)
1934年1月25日生まれ(現在86歳)。静岡県出身。
1963年マン島TTレースへ初参戦し、4位入賞。
1966年世界GP日本ラウンド(富士スピードウエイ)にて250㏄クラスにて優勝。国内開催GPで日本人が日本のマシンで勝った最初のライダーとなる。
1968年マカオGP優勝
引退後、浜松市東区に二輪車販売店「ハセガワカンパニー」を設立。現在は息子さんが引き継いでいる。YAMAHA DAYの主旨をご説明し、“ヤマハレースの創成期のお話を伺いたい”と取材を開始しました。

YAMAHA(以下Yとする):“先ずは長谷川さんとヤマハの関わり合いを教えてください”

長谷川さん(以下長とする):「当時(22~23歳)は沼津の昌和製作所(当時数多く存在したバイクメーカーのひとつ)でテストライダーをやりながらレースへ参戦していました。後にヤマハへ吸収合併されたが、間もなくヤマハのスタッフと関わる様になり、契約することとなりました。当時は、野口種晴さんや伊藤史朗さん(両名共に当時の日本を代表するヤマハライダー)らと走っていました。当時のヤマハは新興メーカーだったが、マシンは最初から速かったのを覚えています。」

Y:“当時はどのような感じでテスト走行などを行っていましたか?”

長:「まだ専門のテストコースは無く、当時は天竜川沿いを行ったり来たりしてテスト走行を行っていました。大きな音が出ていたので、近所の養鶏場から“音に驚いて卵を産まなくなった!”と文句を言われたこともあったな~(笑)。またヤマハは当時から空力に対する考え方がしっかりしており、飛行場の風洞施設へ行って色んなチェックを行ったりもしました。時代を先取りしていたと思うな。」

Y:“当時のレースはどのような雰囲気でしたか?”

長:「当時は“絶対に勝て!”というようなライダーへの厳しい命令は無かったな。ただし、メカニックは本当に忙しくて良く頑張ってくれていた。転倒やトラブルが発生した際には徹夜することも数多くあった。朝サーキットへ行き、目が真っ赤なメカニックを見ると、“よし、彼らの為にも絶対に勝つぞ!”と思ってレースに臨みました。自分自身もメカニックの事を本当に信頼していたので、そんな彼らの事を思ってバイクを走らせました。当時は人数も少なかったし、本当に大変だったと思う。ヤマハのメカニックは腕も良く、本当に素晴らしかったのを今でも覚えています。当時自分は良く転ぶライダーだったので、本当に苦労を掛けたな~。」

Y:“長谷川さんが一番思い出に残っているレースを教えてください”

長:「色々あるが、やっぱり伊藤史朗選手/砂子義一選手と参戦したマン島TTレースだな。」

Y:“マン島TTレースと言えば公道を使用した激しいレースのイメージがありますが…”

長:「島内1周約60㎞のコースを5周するレースだが、しっかり下見してコースを覚えたから、恐怖心は無かったかな。ただ当日は濃霧となって。前が全然見えない状況の中、マイク・へイルウッド選手(※1)に抜かれて表彰台を逃したのは本当に残念だった。相手は何度もマン島TTに出場していたので、濃霧でもお構いなしだった。でも初めて出場して4位獲得ということで、皆に褒めて貰えて嬉しかった。それにしてもマイク・へイルウッドは、本当に速かったな。」

Y:“海外のレースでご活躍されていましたが、特別なご苦労等はありませんでしたか?”

長:「マカオやシンガポールへ良く行ったが、現地のディーラーさんがしっかりと受け入れてくれて、特別困ったことは無かったよ。ご馳走も用意してくれて、美味しかったな(笑)。レースの際はスコールに悩まされたが、戦績は悪くなかった。レースで勝つと直ぐにバイクが売れたので、“営業の為にも絶対勝つぞ!”という意気込みで走っていました。実際レースに勝利したあと、バイクにサインを入れて売ったこともあったな。そんなこともあって、海外のディーラーさんから頻繁にレース参戦のお誘いがありました。」

Y:“長谷川さんは数多くのレース車両にお乗りになったと思いますが、一番思い入れのあるマシンは?”

長:「250㏄の“RD05(※2)”だな。これはマシンのつくり込みから関わり、非常に思い出のあるマシン。色々と開発に苦労はしたが、メカニックも本当に頑張ってくれたな。谷田部へテストに行ったり、思い出は沢山あります。それとRD56も素晴らしいバイクだったな。」

Y:“最後に、現役ヤマハ社員へ一言アドバイスをお願いします”

長:「他の人の言葉を引用するが、“為せば成る、為さねばならぬ何事も”という気概を持って欲しいです。今の時代は色々と大変かと思うが、ヤマハの社員は是非とも頑張ってほしい!」

《取材メモ》
86歳と大変ご高齢ながら、半世紀以上前の出来事を鮮明に覚えられている点は、本当に驚きました。
我々の質問にも即座にお答え頂き、また当時のエピソードも交えて非常に楽しいひと時となりました。お体が若干不自由ではあるものの、終始笑顔でお話しされている姿が大変印象に残りました。

※1:1950~60年代を代表するライダー。MVアグスタやホンダで大活躍し、二輪引退後は四輪に転向し、F1にも参戦して秀逸な面も見せた。

※2:ホンダの6気筒マシンへ対抗するため、2ストロークV型4気筒エンジンを搭載したマシン

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ヤマハOB社員取材

① 野村和彦さん
1941年生まれ(現在79歳)
入社後に市販車エンジン設計を約1年半担当経験した後、1965年にロードレース担当となる。翌年、ヤマハのモトクロス世界GP参戦に合わせてモトクロス担当となる。1977年にレース部門を離れ、1987年取締役就任。

② 松井隆さん
1941年生まれ(現在79歳)
入社後間もなくレース車体設計に携わり、約10年間ロードレース活動に従事。その後市販車設計を経て、定年後はCP歴史車両の再生に手腕を振るわれた。

③ 鈴木年則さん
1941年生まれ(現在79歳)
YDS-1(※)市販レーサーの設計/実験を経て、1964年からモトクロスを担当し、ヤマハモトクロスの創成期を築く。1978年に市販車開発へ異動し、その後欧州/インドネシア/タイの駐在や部品事業部にてご活躍された。

YAMAHA DAYの主旨をご説明し、“ヤマハレースの創成期のお話を伺いたい”と取材を開始しました。

YAMAHA(以下Y):“まず初めに皆さんそれぞれの入社時からレースとの関わりについてお聞かせください”

野村和彦さん(以下野村):「今ではちょっと考えられないと思うが、新卒で入社して早々、何の経験も積んでいない時分に、いきなりYDS-3(※)のクラッチ担当を命ぜられて、非常に驚いたことを覚えている。当時は新人にもどんどん仕事を任されたが、今考えると当時のヤマハは、既にチャレンジ精神が旺盛な会社だったと思う。」

松井隆さん(以下松井):「1959年当時は車体設計に属しており、ロータリーバルブのYA-5(※)の試作を担当していたが、1960年に“GPチームをつくるから、担当せよ”と言われたのが最初。当初は先輩と自分の2名が車体担当だった。まだ19歳だったが、無我夢中で懸命に取り組んだ。」

鈴木年則さん(以下鈴木):「右も左も分からない状態で市販車レース部門に配属されたが、当時は先輩と自分の二人だけで非常に大変だった。それでも何でもやれて凄く楽しかった。そしてある日上司から、“これからヤマハもオフロードに参入することになった。宜しく頼むぞ”と突然言われたところから始まった。何も分からなかったので、YDS-2(※)の2気筒のエンジンでトライもしたが、結果は当然ながら全然ダメ(笑)。それぐらい当時は何も分からない中で、モトクロスの第一歩を踏み出した。後に上司から”お前がヤマハモトクロスの生みの親だ“とおだてられ、その後モトクロスに専念した。」

Y:“ロードレースもモトクロスもわずか1年という非常に短い期間で準備できた理由は何でしょうか?”

野村:「人数こそ少なかったが、センス豊かで才能に抜きんでたメンバーが、自由な発想で何にでもトライさせてもらったことが大きかったと思う。また、当然ながら1番を目指していたし、2番はビリと同じだという想いで取り組んだ。レース部門は、“何が何でも1番になるぞ”という意気込みに満ちており、職場の雰囲気も、非常に前向きだった。また今の時代では考えられないが、“マン島TTレースのコースに似ている”という理由で、富士吉田にもテスト走行に言ったことを覚えている。当時のレース車両は市販車を改造したものがベースだったが、色々なチャレンジを繰り返していた。先輩から、“先ずは何でもやってみろ”と言われ、数多くチャレンジし続けたことが、結果的に良い方向へ向かったのかもしれない。」

松井:「60年当時のレース部門は、人数も非常に少なかった。60年後半からようやく10名ほど増員されたが、それでも全部で20人程度だった。人手も足りずノウハウも無い中、皆で試行錯誤を繰り返しながらコツコツと頑張っていた。若手でもどんどん仕事を任せてもらっていたが、自由にできる反面、自分で最後までやり遂げないといけないので、結果的に自然と責任感を持って取り組むことになった。当時のヤマハライダーは野口種晴(※)さん・砂子義一(※)さん・長谷川弘(※)さん・伊藤史朗(※)さんらの錚々たるメンバーが居り、良く天竜川沿いでテスト走行を行った。わざわざ福島の白川にまで行ってテストしたこともあった。そこは戦後廃線になった線路をバス専用に舗装したところで、遮断機があった道路だった(笑)。その道路を行ったり来たりしてテストを行ったことを覚えているよ。」

鈴木:「自分の場合は社内でモトクロスを知っている人が誰も居ない中で始めたので、当然ながら大変な面も多かった。それでも自分が思うままに自由に楽しく取り組めたから、成果を出せたのも早かったかもしれない。でもそれは当時のことであって今に当てはまるとは思わないが、仕事を楽しむことは本当に大事なことだと思う。」

Y:“初めての海外参戦で大変だったことを教えてください”

鈴木:「当時は3~4名で欧州中心にモトクロス会場を転戦していたが、人数が少なかったことより、むしろ開催地へ入国することがとても大変だった。特に旧共産圏への入国は非常に厳しかったのを覚えている。スポーツライセンスを取得してビザを持っていたにも関わらず、車の下までチェックされて。別に何もやましい事は無かったのに、何故かドキドキして待っていた(笑)。またライダーの契約等も全部自分でやらなければならず、今思うと本当に大変だった。何のノウハウも無かったのに良くできたと思う。」

Y:“当時のマシンづくりやライダーについて印象に残っていることは何ですか?”

野村:「当時のマシンは125㏄で45馬力だったが、本当に速かった。確か18,000回転まで回った。ミッションは他社が12段や13段変速だったが、ヤマハは9段変速で勝負していた。“本当に変則段数が多い方が良いのか?”という疑問が有ったので、徹底的にテストして検証した。
テストした際に1段変速する毎にコンマ3~4秒ロスするということがわかっていたので、最終的に他社に追随することなく9段変速とした。当時のスズキのライダーに聞いたら、“何速で走っているかわからなくなってしまう”と嘆いていたのを覚えている(笑)。また印象に残っているライダーは数多くいるが、当時非常に優秀だったライダーは、G.アゴスチーニ(※)だったかな。彼は感性がすぐれており、各コーナーでの走行状況を正確に理解して、ピットへ戻った際、我々に対して的確にギアレシオ等の指示をした。その通り変更したら、本人が言うタイムを記録したので、この時は本当に驚いた。今でこそコンピューターにデータが記録されるが、当時はそこまで正確にマシンを理解するライダーは居なかったと思う。日本人では高井幾次郎(※)さんが同じタイプだった。逆にK.ロバーツ(※)は天才だったが、フィーリングの範疇が多く、エンジニア泣かせだったな(笑)。また性格が非常に良かったのはB.アイビー(※)。日本人的な感性を持ち合わせており、本当に良い関係性を築きながらレースに取り組んでいた。」

Y:“最後に我々現役社員へ、先輩方から一言お願いします”

鈴木:「“自分自身がヤマハをどうしたいか?”、また“この部署/部門をどうしたいか?”という思いを強く持って業務に取り組んで欲しい。そうすれば自然と自ら取り組まなければならない事が浮かんでくる。レース時代に培ったものは、その後も凄く活かされた。レースの世界では当然ながら“相手に勝つにはどうすべきか?”を考えるが、市販車も同じ。“ライバル会社に如何に勝つか?”という姿勢で臨んでいた。相手を徹底的に研究することにより、自らの強みや弱みが明確になっていく。これからの時代は本当に大変かもしれないが、是非とも頑張ってください!」

松井:「エンジニアの方々へ伝えたいが、今はCAD等の機械で自由自在に設計が出来るが、先ずは自分の頭の中でしっかり整理することが重要。これが想像力を大きく膨らます。これはレースエンジニアだけでなく、全てのエンジニアに対して言えることだと思う。やはりイメージすることが出来ないと、その先が上手く行かないと思う。大変ですけど、皆さんの頑張りに期待します!」

野村:「最近レースの戦績が悪いが、やはり企業は“燃える様な情熱”が無いと発展しないと思う。当時は何が何でもトップになってやるという気持ちで臨んでいた。どのジャンルも日本が“世界一”というものが非常に少なくなってきているが、二輪レースの世界はまだまだ日本が席巻している。そんな中で、ヤマハも情熱を持って打ち込んで欲しい。情熱こそが力の源だ。頑張れ!」

《取材メモ》
レース創成期を担った大先輩とのご面談でしたが、皆さん非常に気さくに話して頂き、また当時を懐かしんで表情豊かにお話頂けました。大変驚いたのは、50年以上も前の出来事を実に正確に記憶なさっていた事です。当時のメモ等を見る訳でもなく、時系列に且つ正確にお話頂けたましたことは、やはり熱意を持って取り組まれた証であると思いました。

※野口種晴:初代ヤマハファクトリーライダーのひとり。ヤマハがGPに初参戦した1961年は、フランスGPの125ccで8位、250ccで10位となり、GP参戦の先駆けとして健闘。現役引退後は、チーム監督として尽力、多くのライダーを育てた。

※砂子義一:ヤマハファクトリーライダーとして世界GP等で活躍後、日産自動車のファクトリードライバーとしても活躍した。

※長谷川弘:1963年のマン島TTレース250ccで初出場ながら4位を獲得。同年250ccランキング14位、その後も世界GP、東南アジアの国際レースなどで活躍した。
Yamaha Dayスペシャルサイト、「Heritage」コーナーの「07日本最大級のレースで鮮烈デビュー」にてインタビュー記録あり。

※伊藤史朗:第1回浅間高原レースの250ccに出場。弱冠16歳で優勝を飾り、天才ライダーとして注目を集めた。

※高井幾次郎:1966年、19歳でロードレースにデビューし、1969年全日本125ccチャンピオンとなる。1974年ヤマハファクトリーチームに加入し、TZ350にて全日本F750クラスチャンピオンを獲得した。

※ジャコモ・アゴスチーニ:世界GPタイトル獲得数15個を誇る、イタリアの国民的英雄。'74年350ccクラスでチャンピオン。翌'75年には500ccクラスで4勝を挙げて、15個目のライダータイトルを射止めた。

※ビル・アイビー:1966年125ccクラスで4勝を挙げてランキング2位。1967年には125cc全12戦8勝・2位2回という圧倒的な戦績でチャンピオンに輝いた。

※ケニー・ロバーツ:1965年、14歳でアマチュアレースにデビューし、1973年と74年には2年連続AMAグランドナショナルチャンピオンを獲得。1978年から世界GP500にフル参戦すると、いきなり3連覇の偉業を達成した。

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やっちゃん

ヤマハモーターサイクルを世に知らしめた輝かしい先人の偉業ですね。操業間もない会社が作ったそれまで全く無名のバイクが、デビュー&ウインという快挙。しかも戦後10年しか経っていない当時、資材も知見も足りないものばかりだったはず。でも先輩たちは、夢と情熱があればできない事なんか無いんだと教えてくれているんですね。

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