第5節 4ストモトクロッサーの衝撃

コーヒーテーブルを挟んで向き合う2人の間には、微妙な空気が漂っていた。ソファーに深々と身体を沈めたキース・マッカーティ監督が、おもむろに口を開く。4ストロークマシンに乗ってくれないか…。'96年のある日、監督宅で打ち明けられた翌年のレースプランは、ダグ・ヘンリーの想像を超えるものだった。

ヤマハの提唱とAMAの英断ヤマハの提唱とAMAの英断

’96年まで、スーパークロスでは2ストローク車が主役だった。

「4ストロークはプレイバイクだという先入観があったし、即答できなかったよ。自分自身の状況としても'95年に背骨を折って、衰えたライディング感覚を取り戻そうと必死になっているところだったので、乗り慣れた2ストロークのYZ250で行きたいと思った」

ヘンリーに託されようとしていた4ストローク車の名は、YZM400F(0WH2)。完全にワンオフのフルファクトリーマシンだった。AMAスーパークロス/AMAナショナルモトクロスには、市販車をベースとするレギュレーションがあるのに、なぜファクトリーマシンYZMが走れるのか。これはYMUS(ヤマハモーターコーポレーションU.S.A.)からの打診を受け、特例を設けたAMAの英断によるものだった。

‘96年ナショナルMX(上)とデイトナでのスーパークロス(下)を2ストYZ250で走るヘンリー

カリフォルニア州では折からの環境問題対策として、排気ガス規制が厳しくなってきていた。そこでエミッションが少ない4ストロークエンジンの必要性を説き、開発を目的としたファクトリーマシンの限定的参戦を提案すると、AMAはわずか3日後にこれを許可したのだ。市販化を前提とした4ストロークマシンのプロトタイプであれば、申請した当該シーズンに限って出場を認める。アメリカがYZM400Fに与えた滞在許可は1年。実質的には、'97年のAMAスーパークロス開幕から、AMAナショナル最終戦まで、8ヶ月という短い期間だった。

当時のAMAには125クラスと250クラスがあったが、YZM400Fがエントリーするのは4スト550ccまで認められていた250クラスだった。

一方、世界グランプリでは125、250、500のシリーズが別々に開催されていたが、4ストロークの排気量格差が認められていなかったので、YZM400Fは自ずと500クラスを目指した。

ゼロスタートの開発ゼロスタートの開発

ファクトリーマシン開発プロジェクト発足時のスタッフは、リーダーの塩原正一を筆頭にロードレーサーのエキスパートばかりだった。塩原自身、入社以来2ストローク一筋で、YZRのエンジンを設計してきた職人だ。4ストロークエンジンの設計者も、モトクロッサーを手がけた経験者もいない。対極的な2ストロークのロードレーサーを専門としてきた技術者だけで、果たしてうまく行くのだろうか。結果的にはこのゼロからのスタートが、既成概念にとらわれない、画期的な4ストロークモトクロッサーの誕生につながった。

開発当初より、シャシーにはYZ250のディメンションを踏襲することが決まっていた。2スト250の車格を目指すなら、新しいフレームを起こして試行錯誤する必要はない。定評あるYZ250の車体を生かせばいいではないか。そこで、YZ250のフレームにTT250Rのエンジンを載せて走ってみたが、これが重たくて、モトクロスができる代物ではなかった。

1997年、500ccモトクロス世界選手権とAMAスーパークロス&モトクロスに投入したYZM400F

そんな状況を打破したのが、開発スタッフ田村健寿の提案。彼はYZF750用のシリンダーヘッドとカムシャフトを鋸で1気筒分切ると、TT250Rのシリンダーと組み合わせ(YZF=ボア72mm、TT=ボア73mm)、溶接とパテ盛りだけで250ccエンジンを試作してしまったのだ。このエンジンは13,000rpmも回り、2スト250と125の中間ぐらいのパワーが出ていた。YZ250のフレームに積んでみると、意外なことによく走る。車重は110kg弱。いい線だ。暗中模索だった開発陣は、この辺りで行けそうな感触をつかみ、決意を新たにしたのだった。

やがて、YZMの排気量は400ccと定められた。ボア・ストロークは95×56mm。この数値は、エンジン性能を優先したものではなく、YZ250のフレームに収まる高さを考慮して決まったものだ。最終的に世界グランプリに照準を合わせたマシンであるなら、なぜフルスケールの500ccにしなかったのだろう。理由は二つあった。

まず、パワーばかり追求しても重くなってしまっては無意味で、重量とパワーのバランスポイントは、400cc前後がベストだと試算されたこと。もう一つは、250×1.6=400という数式だった。2ストロークエンジンには、一度シリンダーの外に出た新気が、チャンバー内ではね返されて戻ってくる性質があり、この働きで排気量の1.6倍の仕事をすると言われている。そこで2スト250と同等の4ストロークエンジンを作るなら、250に1.6を乗じた400ccが妥当だと判断されたのだ。ロードレースのTT-F3クラスの排気量設定と同じである。

市販モデルYZの開発市販モデルYZの開発

こうしてファクトリーマシン、YZM400Fの開発が着々と進む傍らで、もう一つのプロジェクトが動き出していた。後にYZ400Fとしてデビューする市販車である。プロジェクトリーダーになる中山善晴が所属していたモータースポーツ開発部に、YZグループが移ってきたことがきっかけで、既存の2スト車のラインナップに4スト車が加わることになる。市販車部門は関わる部署が多いため制約が多いが、モータースポーツ開発部はレース部門なので物事が進捗しやすい環境だった。

「その頃YZのフルモデルチェンジは3年周期、'96年、'99年というタイミングだったので、何か新しいことをやるには'98年モデルが好機でした。通常のプロジェクトですと、営業や商品企画から開発に対して打診があるものですが、この時は我々の方から逆提案をして、とにかく4ストYZを'98年モデルとして売り出す大日程に乗せたんです。何も形になっていない状態だったんですが、たぶんできるだろうと…」

モトクロッサーを担当するのはこれが初めてだったが、中山には長年4ストロークエンジンを設計してきた経験があった。YZ400Fの手法はYZM400Fと同じで、YZ250のフレームに載る4ストロークエンジンを作る、というシンプルなコンセプトを貫いた。シリンダーヘッドを極力低く抑えるために5バルブを採用したDOHCエンジン。ボア・ストロークはYZM400F=95×56mmに対して、YZ400F=92×60.1だった。フレームもファクトリーのレプリカではなく、独自に設計したものだった。

「市販車の生産日程に間に合わせるには、ファクトリーからのフィードバックを待つ暇はありませんでした。市販車にはコスト、信頼性、生産性など、要件が多々あるので同じにはできない。さらにYZ400Fの姉妹車として、WR400Fを同時開発しなければならない事情もありました。プロジェクトを成り立たせるには、ある程度の生産台数が見込めないと設備投資などのコストを償却できません。ですから当初のプランでは、YZ400Fが3,000台、WR400Fが6,000台として企画を押し通したんです」

その日、誰も信じなかったが・・その日、誰も信じなかったが・

'96年の暮れには、ファクトリーマシンYZM400Fをテストするためにヘンリー、バルトリーニ、ヨハンソンが来日した。ヘリコプターメーカーのシコルスキーに勤務する父を持ち、自身も工業系の教育を受けていたヘンリーは、チタンやカーボンファイバーが惜しみなく用いられたそのマシンに驚喜した。

一方で市販車YZ400Fのテストは、アメリカでヨーロッパの関係者も交えて行われた。それはテストというよりも売り込みに近かった…と中山は回想する。

「4ストの市販モトクロッサーを開発中だと聞いても、誰も信じてくれませんでした。モトクロスに詳しい人ほど懐疑的でした。アメリカでもTT400みたいなものだろうと思われていたので、だったら乗って判断してもらおうとYZ400Fの試作車を持って行ったんです。カールスバッド、グレンヘレン、LACRなどでテストしたんですが、評価は良好でみんな驚いてくれました。ヨーロッパからステファン・ペテランセルも呼び寄せたんですが、彼がヘルメットを脱いだ途端、目を丸くして『サプライズド!』と叫んだのが象徴的でした」

明けて'97年、AMAスーパークロスが開幕すると、ヘンリーは2ストYZ250で参戦を開始した。ファクトリーマシンのYZM400Fはキャブレターの加速ポンプのセッティングに少々課題を残していたため、実戦投入はシーズン後半のAMAナショナルまで見送られることになった。4ストでスーパークロスなんて、やはり無理だったのだろう。口さがない世間には、そう決め付けられた。しかし、この4ストロークファクトリーマシンのポテンシャルを誰よりも知るヘンリーとヤマハは、密かにスーパークロス参戦を企てていたのだ。

’97年AMAスーパークロス第2戦ロサンゼルス、ヘンリー(#20)は2ストYZで優勝。しかしシリーズ後半は怪我で5レースを欠場。最終戦を密かに待った。

賭けの舞台賭けの舞台

1997年、500ccモトクロス世界選手権・イタリアGPで優勝しA・バルトリーニとYZM400F

YZM400Fによるスーパークロス出場が明らかになったのは、最終戦ラスベガスのわずか1週間前のことだった。開幕当初はヘンリーがポイントリーダーだった事情もあり、好調なYZ250の代わりにYZM400Fを投入するような冒険はできないままだった。だがシリーズ中盤に手を骨折、タイトル争いから脱落してしまったヘンリーにとって失う物は何もなかった。

迎えようとしている最終戦は、YZMが限定ルールの下で走れる最初で最後のスーパークロスだ。ヨーロッパでは、同じYZM400Fを駆るバルトリーニが、早くもイタリアGPで初勝利をマークしている。気運は上向きに違いなかった。誰もが夢を求めて集うラスベガス…。賭けに出るには、これ以上の舞台はない。

'97年5月17日。ラスベガス郊外のサム・ボイド・スタジアム。AMAスーパークロスが行われる会場の中でも、最も狭い施設の一つだ。滑りやすいハードパック路面。タイトコーナーが連続し、直線距離も短い。ヘンリーにとって、好条件は全くないように思われた。しかしヘンリーは、スタートから周囲の思惑を覆してみせた。

ホールショットだ。ヘンリーはオープニングラップから快調に飛ばし、いきなり2秒以上のリードで後続を突き放した。予選ヒートでは、ジェフ・エミッグと毎周ポジションを入れ替えるバトルを見せたが、決勝のヘンリーを脅かす者はなかなか現れない。スピードを殺さず、アウトを回るのが4スト乗りだという先入観があったが、ヘンリーはタイトなコーナーをことごとくインベタで回って行く。トラクションもさることながら、ピックアップの良さが生かされていた。

フープスでは全く振られず、真っ直ぐなラインをキープしていた。この安定感は、2ストに比べてトルク変動の少ない4ストエンジンが、車体を助けている典型的な例だった。スーパークロスで求められるエンジン特性には、2ストのようなレスポンスがないとだめだろうと思われていたが、ヘンリーの走りを見ていると、むしろ他の2ストの欠点の方が際立ってくる。たとえば、ギャップで思いきり開けた時に、急激なパワーでリアが横向きになる2スト。あるいは加速地点で、後輪を無駄に滑らせている2スト。そんな現象は、ヘンリーの4ストマシンには皆無だった。

1997年、AMAスーパークロス最終戦ラスベガスで優勝したD・ヘンリーとYZM400F

空中で一瞬スロットルを戻す時だけ、図太いエキゾーストノートが途絶える。毎周、実に楽々と3連ジャンプをクリアして行くYZM400Fは、メインレースの半ばを経過する頃には、完全に観衆の心をつかんでしまった。もはや、4ストロークマシンのパフォーマンスに、疑いを挟む者は皆無だ。20周を消化して、ヘンリーがチェッカーフラッグを受けた瞬間、YZM400FはAMAスーパークロス史上初の4ストロークウィナーとなった。スタートtoフィニッシュという最高の勝ち方が、マシンのポテンシャルを実証していた。

「レース前、マイク・キドラウスキーに笑われたんだ。そんな4ストマシンで予選通れるのかよって…。もちろん自信はあった。カールスバッドで行った直前テストで、キャブレーションの向上を確認した時から…」

度肝を抜いた3ヵ月後の市販車発表度肝を抜いた3ヵ月後の市販車発表

1998年、D・ヘンリーはYZ400FでAMAスーパークロス3位入賞4回、AMAナショナルでは総合優勝5勝(モト優勝6回)を飾りチャンピオンに輝いた。

ファクトリーマシンのYZM400Fが戦果を挙げる度に、世界中のモトクロスライダーが、その後に控えているはずの市販マシンに思いをはせた。もう試作車が走っているのだろうか。発売は1年後か、あるいは2年後になるのだろうか…。しかしヤマハは、ファンに“夢”を見る時間を与えなかった。

ファクトリーマシンの実戦投入から、わずか3ヶ月後の'97年6月、市販4ストロークモトクロッサー、YZ400Fが発表されたのである。エンデューロ向けのWR400Fは、秋のモーターショーまで待たなければならなかったが、ファクトリーマシンで優勝、そして市販車発表という劇的な登場のしかたは、モトクロスファンの度肝を抜くのに十分すぎるものだった。ファクトリーレプリカの市販車が、目の前に現れたのである。想像する楽しみは早々と奪われてしまったが、今度は早く乗ってみたいという夢をヤマハは提供した。

ファクトリーマシンによる参戦は'97シーズン限りとなったが、ヘンリーと4ストの関係は継続する。'98年は市販車YZ400Fに乗り換え、スーパークロスでは3位入賞4回、そしてアウトドアでは総合優勝5回をマークし、AMAナショナル250チャンピオンを獲得することになるのだ。

「ファクトリーマシンのYZM400Fは驚くほど軽くてピックアップに優れたマシンだった。翌年の市販YZ400Fは扱いやすさと戦闘力を兼ね備えたマシンだった。だから優劣を付けることはできない。ただ明言できるのは、シートに跨がる時間を積み重ねたことで自分の4ストライディングスキルが向上して、それが好成績につながったということだ」

スタジアムに轟く雷鳴のようなエキゾーストを耳にする度に、ヘンリーが無謀と言われつつ賭けに出た、ラスベガスの熱い夜を思い出す。'97年5月17日、ヘンリーがジャックポットを当てていなかったら、今日のような4ストローク時代の訪れはもう少し遅れていたかもしれない。

ヤマハが先鞭を付けた4ストローク化のムーブメントは、やがて世界に波及していった。2001年モデルとしてデビューしたYZ250F。そしてボアアップによって戦闘力を増したYZ426F、さらに排気量アップが施されたYZ450Fによって、モトクロス界はヤマハの4ストローク車に席巻されていった。

頂点モデルであるファクトリーマシンの開発と、モトクロスファンのための市販車開発。そのどちらもヤマハは世間の常識を覆した。加えて、頂点モデルから始まった4ストオフロードモデルの進化が世界中に新たなオフロードファンを増やしていった。

ヤマハのフロンティア開拓は、こうしてさらに広がっていくことになるのだった。

参考動画参考動画

AMAスーパークロス史上初の4ストロークウィナー

1997年のAMAスーパークロス最終戦は、YZM400Fが限定ルール下で走れる最初で最後のチャンスだった。好条件のコースとは思われなかったが、ヘンリーは序盤から観客の思惑を覆していった。

市販車YZ400Fの開発

1997年、ファクトリーYZM400Fと市販YZ400Fは別プロジェクトで動いていた。400ccの4スト市販モトクロッサーという提唱に、最初は誰も信用しなかった。エンジン開発者が、当時の内幕をふり返る。