第2節 DT-1誕生
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米国西海岸の伝言米国西海岸の伝言

ヤマハ発動機初のオフロードモデルとなるDT-1は、1967年10月、当時のヤマハの米国での販売会社、YIC(ヤマハインターナショナルコーポレーション)のディーラーミーティングで初めて披露された。“トレール”という新しいジャンルを提唱したそのスリムで美しいモデルは、日米で空前のオフロードブームを引き起こすこととなった。

物語は1960年代の米国西海岸地帯に始まる。そこでは広大な荒野でオフロードランを楽しむマニアが増えていた。カリフォルニア州ロサンゼルスから晴天時は稜線が綺麗に臨めるサドルバック(Saddleback)は、その代表的エリアだった。丘陵の形がサドルに似ているのでこう呼ばれるという。そこをバイクで走る若者達がいた。同じ頃、ロッキー山脈が南北に貫き平均標高では米で最高の山岳地帯をもつコロラド州。ここでも同じような若者達がいた。

1967年当時のアメリカ、マシンはYDS3C
1967年当時のアメリカ、マシンはYDS3C

そんななか、1960年代ヤマハは、“トレールマスター”という名で、オフの走りを考慮した数機種のモデルを米国で販売していた。エンジンガード、幅広ハンドル、セミアップマフラーなどを装備していたが、既存のオンロードモデルをベースとしたもので、本格的な“トレールモデル”ではなかった。

1967年発売のヤマハトレールマスター100(YL-2C)

米国の販売会社YICは、一般公道でもオフロードでも走れる”トレールモデル”提唱に将来性があると見て、その意図は駐在していた日本人社員を経て本社に伝えられた。「確かに現在の米国市場は経済環境も影響して需要が低迷中だ。しかしトレールというカテゴリーは今後きっと伸びるはずだ」と、全く新しいモデル開発の必要性を技術部に強く訴えた。1966年春、YICから本社へのプレゼンテーション。その後サンプル車を日本に送り、1966年10月ついにDT-1の開発が始まった。国内ではまだトレールというカテゴリーさえ十分認知されていなかった時代。本社はGKダイナミックスのデザイナーを含め、技術者、商品企画担当者を米国に派遣し、オフロードライディングの実態やユーザーの要望を確認。自らもオフの走りを体験して新モデルの構想を練っていった。

米国からのリクエストは細かく非常にハードルの高いものだった。「エンジンは250cc。モトクロスだけでなくトライアル的要素も兼ね備えること。公道でも獣道でも走れるもの」と。タイヤサイズ、タイヤパターン、サスペンション形式やストローク、ホイールベース、シート高、最低地上高など要求は多岐に及んだ。現地スタッフと本社開発スタッフのイメージがなかなかうまくシンクロせず、開発はとんとん拍子に…というわけにはいかなかったが、技術者たちは新しいハードルに挑戦し、乗り越えようという熱意を固めていく。そして、次の三つのポイントを重点的な開発方針に定めた。

(1)車重は100kg以下 (2)狭い山道を走行するため、車幅はできるだけスリムに (3)エンジントルクは可能な限り大きくする

「未知のものに挑戦するというワクワク感がありました」と当時の技術者はいう。まだ世の中に無い全く新しいモデル、新しい世界へ挑戦したいという開発者たちの熱意は大きかった。

1967年当時のアメリカ、マシンはYDS3C

「YX26」というファクトリーマシンのこと「YX26」というファクトリーマシンのこと

DT-1は米国での現地テスト等を経て、翌年1968年春の発売となる。設計開始からわずか1年3ヵ月後の発売という急ぎ足で生まれたDT-1だが、誕生の裏には、ヤマハ初の単気筒ファクトリーモトクロッサー「YX26」の存在があった。

単気筒ファクトリーモトクロッサー「YX26」の開発が始まったのは1965年11月だった。YICが本社に「DT-1」開発のプレゼを行う数ヵ月前である。「YX26」開発に携わった鈴木年則氏は話している。

「1963年から65年頃のヤマハのレース活動は、2気筒エンジン搭載のマシンに注力していました。同じライダーが、マシンの仕様を変更しロードレースにもモトクロスにも出ていた。モトクロスのスピードが出るコースでは有利でしたが、雨が降ったり、曲がりくねったコースだと不利でした。当時はスズキ、カワサキの単気筒マシンも走っていました。そこで技術者としては単気筒を作りたくて燃えていた。」

ファクトリーモトクロッサーYX26

それまでヤマハが2ストローク2気筒の路線だったのには背景があった。ロードレースで世界チャンピオンを獲得していた実績である。ヤマハは1961年ロードレースの世界選手権に参戦し、1963年ベルギーGPで2ストローク2気筒の「RD56」で初優勝。翌1964年には、250ccでメーカー&ライダーの世界タイトルを獲得したのだった。ロードレースの頂点を制した次の挑戦がモトクロスだったが、ヤマハはそこでも2ストローク2気筒の可能性に賭けていたのだ。が、ようやく単気筒へと舵をきり、「YX26」の開発が始まったのが1965年11月であった。そしてその数ヵ月後に「DT-1」の企画が始動する。「YX26」「DT-1」ともに250ccであり、ふたつの開発は重なりあっていった。YX26は、自然にDT-1の母となった。

ファクトリーモトクロッサーYX26

日本GPに賭けた「YX26」日本GPに賭けた「YX26」

ファクトリーモトクロッサー「YX26」が公に初登場したのは1967年5月14日。福島県郡山にある自衛隊演習場の特設会場での全日本モトクロス大会だった。前年ヤマハを駆るライダーはYDS系の2気筒250ccで出場していたが、単気筒マシンの後塵を浴びて苦い思いも経験していた。この日は”復権”をかけた一戦だった。準備されたのが、仕上がったばかりのYX26だった。練習走行での好調なライバルチームを見て、ヤマハ陣営ではYX26での参戦に不安を呟く者もいたが、レース当日の朝、当時22歳の鈴木忠男選手(愛称:忠さん=ちゅうさん)が会場に辿り着き雰囲気は変った。実家の仕事を終えてから郡山入りし、ほぼぶっつけ本番で決勝に臨むその熱意と明るさは、チームのプレッシャーを吹きとばした。「これなら勝てるよ」と話し、まともな練習走行なしで決勝に出場、すると”ブッチギリ”の優勝を飾り、デビューウインに8万人が沸いた。

郡山の翌週、富士でのMCFAJのレースでも忠さんは優勝した。「その時はもう完全にYX26に身体が慣れていましたよ。ファクトリーマシンだけど、そのマシンは実は僕の家に預けられちゃうわけね。自分の家にある。それを積んで、どこのレースに行ってもよかった時代なんです。その後レースは、自分で勝手にエントリーして走っていたんです」という時代であった。

そのYX26開発を支えた技術者たちのこころを、鈴木年則氏は、こう思い起こしている。「理想的なレーサーはゴールした時にエンジンが潰れるぐらいがいい。それぐらい極限まで性能を追求するものだ。YX26開発のときはそう思っていました。そういう精神でやっていました。実際はそんなことはできませんが、とにかく全力投球。みんなひとつの方向に向いていたし、素晴らしいことだと思います。無我夢中でしたしそれが楽しかった。辛いなんて思ったことは1度もありませんでした。ヤマハにはDNAというか、そういうものがあったのでしょう」

YX26を駆る鈴木忠男

技術の伝承 DT-1エンジン・車体の特徴技術の伝承 DT-1エンジン・車体の特徴

YX26開発の以前、ヤマハはロードレースでロータリーディスクバルブのエンジンを使っていたが、250cc単気筒としては左右幅があり、モトクロッサーにあわないとの判断でYX26はピストンバルブが採用された。そしてDT-1のエンジンは、YX26のエンジンをもとに量産市販車として新たに設計された。クランク幅は信頼性確保のためYX26よりサイズアップ。とはいえ、3軸配置は当時の125ccモデル(YA6)と同一寸法とし、思い切った軽量化と小型化が図られた。ボアストロークはYX26と同じ70mm×64mm。掃気ポートも、掃気通路と補助掃気通路がそれぞれ独立する新方式で、これもYX26からのダイレクトな技術フィードバックだった。

車体全体をスリムにするために、設計者もデザイナーも徹底的にアイデアを出し合った。特に軽量化には最も苦労し、セクション毎に目標重量を配分するなど、全部品に対してそれまでの常識を否定して設計にあたった。

フレームはハイテンション鋼管が採用された。試作モデルでは、薄肉に設計した車体関係の破損が生じたこともあったが、数多くの実験テストを経て市販製品としての煮詰めが行われていった。

また、DT-1の外観上の特徴である4.00-18の幅広リアタイヤは、現地からの細かい要望を取り入れて決定した。だが、幅4.00インチは当時の四輪トラックなみ。国内で二輪用にこんなサイズの製品などあるはずもなく、国内タイヤメーカーと協力して専用のユニバーサルパターン極太タイヤを作り上げた。

そしていよいよ、生産開始を前に、米国のモトクロスコースで最終テストを実施。さまざまな他社モデルと乗り比べた現地テストライダーは、DT-1に「保安部品を外せばモトクロッサーにも劣らない」という最高の評価を与えた。

ヤマハを“オフロードマニア”に育てたDT-1ヤマハを“オフロードマニア”に育てたDT-1

こうして誕生したDT-1。導入直前の1967年冬、米国での販売台数を検討する販売会議があった。当時米国での全ヤマハ車の販売数は年約4千台ほどだったが、検討の末、初年度の販売計画はDT-1だけでその3倍となる12,000台と決まった。しかし、結局DT-1は品薄状態となり販売計画を軽くクリアーする大ヒットとなったのだった。

翌年の海外ディーラー向けの情報誌「Yamaha News」には、こう綴られていた。

“A Yamaha Trail 250 DT-1 is the most striking bike catching eyes on the street, and it is always ready to stir up a storm on any wild land. Ride it into the wilds straight from pavements to enjoy the fun of off-road riding at its best.

It will prove a rare dual-purpose bike any time, going across streams, passing through woods, speeding along beaches and meeting any other requirements of off-road riding. A Yamaha trail 250 DT-1 is a real man’s bike. It has developed a new field of motorcycling fun and utility to enchant youth around the world.”

当時を知るトム・ホワイト氏(ホワイト・ブラザーズ創業者、AMA殿堂入り)はこう語る。

「私が初めてヤマハDT-1を見たのは1967年12月、アナハイムで開催されたサイクルショーでのことでした。DT-1はそのショーでの”スター”でした。あのようなバイクは、かつて誰も見たことがなかったのですから。私は翌日さっそくディーラーに行き、注文しましたが、結局バイクが届いたのは翌年の4月でした。購入を希望する多くの人々が、ディーラーの前で長蛇の列を作っていました。DT-1はまさにストリートとオフロード、双方での走りを完璧にバランスさせており、独創的なボディデザインを備え、また個性的なサウンドを奏でてくれました。さらに純正のキットパーツを組み込めば、パワーアップも可能でした。DT-1は本当に、米国市場に変革をもたらしたバイクです」

輸出用に開発されたDT-1は、日本国内向けには大きな期待はかけられていなかったが、1967年秋の「東京モーターショー」に出展すると、新ジャンルとして注目され大ヒットモデルとなる。販売開始に歩調をあわせ、ヤマハは各地の二輪販売店と協力して各地で「トレール教室」を開き、オフロードランの楽しさを多くの人に実体験してもらうことに注力した。さらにアフタパーツ「GYTキットパーツ」を開発・販売し、そのキットパーツを付けたライダーたちの活躍が、DT-1ファンの輪をさらに広げていった。

DT-1のGYTキットパーツ装着モデルの国内最高峰へのデビューはDT-1発売から5ヵ月後、北海道は手稲での日本GPだった。前年の日本GPでYX26で優勝している忠さんが、今度はDT-1で出場。2万の観衆を集めるなか、メインの250ccクラスはDT-1を巧みに乗りこなす忠さんが圧勝。前年に続く日本GP連勝を飾りDT-1のポテンシャルを証明することとなった。

デビューウィンを飾ったDT-1と鈴木忠男

その後ヤマハはDT-1の「誰もが気軽にスポーツを楽しめる商品」というキャラクターを、RT-1(360cc)やAT-1(125cc)、HT-1(90cc)、"ミニトレ"シリーズ(50cc、80cc)へと広げ、"ヤマハトレール"という独自のジャンルを確立。オフロードカテゴリでのヤマハの地位を確固たるものとしていった。 そしてその後、各社からもトレールモデルが次々と投入され、世界中にオフロードファンが爆発的に増えていったのだった。

DT-1の開発・販売を通じ、ヤマハは自らが、オフロード走行の楽しみ、その奥深さ、そしてそれが人々を幸せにする力を持っていることを、確信することとなった。DT-1は、まさにヤマハ自身をオフロードマニアへと導いたモデルであり、その後、数々のフロンティアを開拓していくDNAを植え付けたモデルなのである。

参考動画参考動画

Tom White and the Yamaha DT-1

ホワイト・ブラザース創設者のトム・ホワイト氏が、DT-1との出会いとその衝撃について語る。

Mark Porter Looks Back on the Yamaha DT-1

ヤマハモーターUSAのテスティング・マネージャー、マーク・ポーター氏がDT-1の思い出を語る。

「全日本選手権第8回モトクロス日本グランプリ」
250ccクラス

残念ながらYX-26やDT-1でのレース映像は残っていないが、DT-1発売から3年後の1971年、DT-1改造エンジンを積んだファクトリーマシンYZ637でモトクロス全日本GPを制した時の映像を紹介する。

「全日本選手権第8回モトクロス日本グランプリ」
90cc、125ccクラス

さらに、90cc、125ccのジュニア、エキスパートジュニアクラスでもヤマハが大活躍した。

これがヤマハトレールだ

1970年に制作されたヤマハトレールDT-1の紹介映像。