Vol. 6 「ハンドリングのヤマハ」の 新時代を拓いたFZ750

FZ400Rに試乗する根本氏(1984年)

「ハンドリングのヤマハ」の 新時代を拓いたFZ750

 XJ650で4気筒スーパースポーツでも「ハンドリングのヤマハ」イメージを確立したヤマハは、排気量をスケールアップしたXJ900で大排気量化時代に対応した。さらに続いて開発したFJ1100でオーバー1リッター・クラスにチャレンジ、ヨーロッパのアウトバーンで最高速クルージングがビッグバイクの評価で最も重要だったため超高速で矢のように突き進む直進安定性が狙いだった。ここでスーパースポーツのフィーチャーとして前後16インチをはじめて経験、また国内でブームがはじまったレプリカ・コンセプトに対応したFZ400Rでもフロント16インチの開発と取り組んだのである。他車がいかにもレプリカらしいレーシーでクイック・ハンドリングを求めるのに対し、ヤマハの開発実験グループは乗りにくい特性を断固拒否。あくまでも人間の感性に馴染みやすいキャラクターにこだわったからだ。このハンドリングは傑作車FZ750にも引き継がれ、ヤマハの伝統として確立されていくのだった。


(以下、本文は1996年のライダースクラブ誌の記事に加筆修正した)

寄稿者プロフィール


根本健

1948年、東京生まれ。慶應義塾大学文学部中退。
16歳でバイクに乗り始め、’73年750cc全日本チャンピオン、’75年から’78年まで世界グランプリに挑戦。帰国後、ライダースクラブ誌の編集長を17年にわたり務め、多岐にわたる趣味誌をプロデュースする。
現在もライフワークとしてAHRMAデイトナレースに参戦を続けている。

オーバー1リッターの要求した超高速安定性

 ヤマハがRZ250で2スト・スーパースポーツを復活させ、TZR250でレプリカ時代へと流れをつくった'80~'85年までの同じ頃、4スト4気筒のスーパースポーツも一大変革期を迎えていた。それはビッグバイクの排気量が1,000ccを越えるまでエスカレートして、性能的にも超高速域に達したためのハンドリングの行方だった。傑作車XJ650で、4スト・4気筒でも「ハンドリングのヤマハ」のイメージを確立したヤマハは、その後ライバルと同じ排気量を拡大していく路線を歩みはじめていた。'78年のデビュー以来、人気車種だったホンダCB900Fに対抗するためだ。'83年、ヤマハからXJ900が登場した。これは成功を収めたXJ650のエンジンをスケールアップしたモデルで、ベーシック・モデルとしてロングセラーとなった。「自分としてはXJ650がこの仕事のスタートでしたから……」。超高速時代に入ってから現在までのこの激動期に、開発実験グループの中心的役割を果たしてきた猪崎次郎氏(インタビュー当時:第2プロジェクト開発室・実験担当・技員)が、当時の開発の状況を実にリアルに語ってくれた。「XJ650がハンドリングの良いバイクと評価されていたので、XJ900はそこに頼り過ぎましたね。開発段階でヨーロッパに持ち込んだら、直進安定性がまだ不足していると現地のスタッフに怒られた。実はテストコースが豪雨で崩れたことがあって、ストレート部分が使えなかったんです。そんな事情で開発の初期に最高速度付近のテストを充分できなかったこともあったのですが、それにしてもヨーロッパの超高速域の直進安定性を要求するそのレベルの厳しさを思い知りました」。

XJ900 (1983年発売) XJ900 (1983年発売)

XJ900 (1983年発売)
XJ650以降、空冷・直列4気筒エンジン搭載のXJシリーズはヤマハロードスポーツの定番となり、さまざまな排気量・スタイリングのバリエーションモデルを生み出した

 その開発初期段階のXJ900も、安定性をベースに考えてきたヤマハのことだから常識レベル以上の安定感のあるハンドリングであったに違いないのだ。しかし、当時のヨーロッパは速度制限のないドイツのアウトバーンで最高速度・巡航が可能なため、200km/hを軽く超えるようになったビッグバイクの評価は、この超高速域の直進安定性を最も重視していたのだ。そんな時代のフラッグシップ・モデルとしてヤマハはFJ1100の開発を急いだ。アウトバーンの王者の座を狙ったのだ。

 「ヤマハとしてはじめてのオーバー1リッターのスーパースポーツということで、最高速度域での安定性を最重要課題としました。多少は曲がりにくいといわれても、超高速で鼻歌まじりで乗れるくらい真っ直ぐ安定して走るバイクにしようと割り切ったほどです。だから650をベースにした900を延長して考えることはやめて、いままでと違う次元のシャシーをつくろうということになったのです」「そこでエンジンができる前に、イメージしたフレームを実際にカタチにして予めテストをしたんです。ヤマハにはまだオーバー1リッターのスーパースポーツ用エンジンがなかったので他社製の1100を大改造してプリ・テストの前段階、プリプリ・テスト車とでも言うのでしょうか、とにかくそれで走ってみました」。

 そのフレームは、ステアリング・ヘッドまわりの剛性確保を優先課題とした独自のレイアウトだった。ラテラル・フレームと呼ばれるそれは、後方から伸びたメインチューブがステアリングヘッドを過ぎたところまでまわり込むという取りまわしで、四方からステアリングヘッドを支えるという超高剛性な仕様だったのである。「テストコースでは良い感触でした。しかし900の前例もあったので、慎重を期してヨーロッパでも検証することになり、現地法人のあるオランダまでこのプリプリ・テスト車を運んだ。その梱包を解いた途端に現地のスタッフが“ビモータだ!”と叫んだんです。はじめは我々も何のことかわからなかった。でも現地スタッフがヨーロッパのバイク雑誌をもってきて、そのビモータの写真をみせてくれたんですが、たしかに同じレイアウトのフレームだった。コレには参りましたね。我々の方がデビューが少し遅かっただけなんですが……」。

FJ1100 (1984年発売) FJ1100 (1984年発売)

FJ1100 (1984年発売)
ヤマハ初のオーバー1リッターFJ1100は、ボア74mm×ストローク63.8mmで1,097cc、125PS/9,000rpmと10.5kgm/8,000rpmというパフォーマンスを発揮。車重は227kgで低重心化を狙った(前)120/80-V16と(後)150/80-V16の前後16インチ採用が特徴だった

スポーツバイクの系譜

スポーツバイクの系譜
RZ350R(奥)、FJ1100(左)、XJ900(右)

 当時イタリアのスペシャルバイク・メーカーとして、性能とクオリティで定評のある日本製4気筒エンジンを独自のオリジナル・フレームに積んで、そのハンドリングの良さを世にアピールしていたビモータは、このステアリングヘッドまわりを取り囲むようなフレーム・レイアウトで注目を浴びはじめたところだったのだ。後から出たヤマハのFJ1100を“ビモータのコピー”と思ったファンは当時多かったはずだ。実は偶然の結果だったのである。

 「FJには他にも技術的なテーマがありました。開発当初は前後輪18インチだったのが、スーパースポーツとして新しいテクノロジーをアピールすべきだということになり前後輪とも16インチを採用することになった」。これは超高速域の安定性において、低重心化のメリットが大きいという、当時の技術的なフィーチャーと積極的に取り組んだもので、ビッグバイクでしかもスーパースポーツで前後輪ともに小径化するのは日本車ではじめてのことだったのである。

 「もちろん当初はこの前後16インチに戸惑いもありました。しかし99パーセント、ドイツのアウトバーンを最高速度で真っ直ぐに安定して走るという、目標がハッキリしているだけにうまくモノにできた。このときの経験が、その後のFZ400Rのフロント16インチの実用化にも活かされましたし……」FJ1100はXJ650や900のシャフトドライブではなく、一般的なチェーンドライブが採用されていた。しかし、超低重心な構成そのままの安定感の大きい乗り味は何とも独得で、いかにもドイツ人好みのこのキャラクターはその後レプリカの台頭でスーパースポーツというよりグランド・ツアラーとしての位置づけがされ、FJ1200へと進化してXJ900同様人気の衰えないロングセラーとなったのである。

後編へ続く

猪崎次郎氏(インタビュー当時:第2プロジェクト開発室・実験担当・技員) 猪崎次郎氏(インタビュー当時:第2プロジェクト開発室・実験担当・技員)

猪崎次郎氏(インタビュー当時:第2プロジェクト開発室・実験担当・技員)