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Yamaha Motor Revs Your Heart

SEASON' GREETINGS & OFFER

YA-1史譚 【第3話】
モダンを画く
~インダストリアルデザインを志した、学生たちの「あの夏」~

東京発7時36分の東海道本線に乗ると、およそ3時間後には富士山を真正面に見ることができる。そこからさらに2時間半ほど列車に揺られ、浜松に到着する頃には時計の針は13時を指していた。1954年の夏。学生たちにとって浜松までの移動は、ちょっとした旅情も味わえる距離だった。

彼らのカバンの中には、手に入れたばかりのオートバイの運転免許証が入っている。この1か月ほどの間に二輪車に関する書籍をむさぼるように読み、販売店に足を運んではオートバイマニアと呼ばれる人たちとも交流を持った。学生たちの吸収力は貪欲だ。たとえ付け焼刃であったとしても、短い時間で思いつく限りの準備をこなし、意気揚々と浜松の町にやってきた。

東京芸術大学図案部にGKグループを名乗る学生たちがいた。1年留年の5年生が3人、4年生が2人。担当教官である小池岩太郎助教授(当時)を中心に、「工芸にかわるインダストリアルデザイン」を標榜して表現活動に奮励する血気盛んな研究グループだった。

「オートバイのデザインの依頼を受けた。できるかどうか考えてみてほしい」

小池助教授から話があったのは、学生最後の夏休みが間近に迫った頃だった。その前年、彼らの手によるアップライトピアノは日本楽器製造(現・ヤマハ株式会社)のデザインコンペに勝ち、すでに商品化もされていた。学生とは言え、彼らのデザインはすでに実社会でも評価を得ていた。

日本楽器にとって初めてのオートバイ。そのデザインに取り組むため、彼らは浜松にやってきた。本社工場の片隅に作業のための一室が与えられ、ここで約1週間の合宿が始まった。

とは言え、合宿の大半は悶々としたまま時間だけが過ぎていったらしい。待てど暮らせど彼らが望んだ設計図が届かなかったからだ。ならば、その時間を使って世界の一流品への理解を深めようと輸入二輪車の試乗を所望したが、「貴重な参考車を免許取りたてのヘタクソに乗せるわけにはいかない」と、許されたのは国産車への試乗だけだった。学生の一人は、この数日間について「スケッチを画く気にもなれなかった」と振り返る一方で、「(国産車への試乗を繰り返し)オートバイのあるべき姿をおぼろげながら感じることができた」と書き残している。また、十分な議論を持つこともできた。語り合う中で、「(手本とする)RT125の基本構成は良い。しかし、造形思想はオーソドックスで古典的。我らは現代的処理で望もう!」という理念も固まっていった。

デザイン提出の期限が残り2日に迫った日、やっと彼らのもとに参考車と部品設計図が届けられた。時間はない。一同、宿舎にこもって仕事に没入することにした。前後フェンダー、チェーンケース、サイドカバー、キャリア、ランプ類、ニーグリップ、ハンドルグリップ、タンクキャップ、エンジンキーなど、部品ごとに担当を分け、次つぎと作画に取り掛かっていった。

最終日は一睡もできなかった。手を動かし続け、原寸の側面着色スケッチ、斜め前方からの外観図、部品図と部品のクレイモデルを提出会議のぎりぎりに間に合わせた。当時、装飾性をできる限り排除して機能美を際立たせることがモダンデザインの定法とされていたが、フロントフェンダーには音叉をモチーフとしたオーナメントが乗せられた。

「正確なことはわからない。ただ当時のGKは、ドイツの美術学校バウハウスのモダンデザインとともに、アメリカのストリームラインに強く影響を受けていた。アメ車のボンネットマスコットも、もちろん観察していたことだろう」。彼らの志を引き継いだ後進の一人は、オーナメントの存在についてそう考えている。

デザインを提出した会議では、技術上の検討や製造・生産に関わる問題点などのチェックが一切なされなかった。多少の説明を加えて、用意したスケッチやクレイを提出しただけだ。翌日、彼らは疲れ切った身体を東海道本線に預けて東京に戻っている。

その後、会社からの消息は途絶え、「あのデザインは採用されなかったのか……」という不安を抱えたまま夏が終わった。一年前にピアノをデザインした時は、製品化までに幾度も検討と修正が重ねられた。その記憶がますます若者たちの気持ちを重くした。

浜松から連絡が入ったのは、すでに秋も深まった頃だった。再び東海道本線に飛び乗ったのは「天高く、青空」の日だったという。訪れたのは新設されたばかりの小松工場(現・浜北工場)。その後YA-1を生産し、翌年創立するヤマハ発動機の本社となるヤマハモーターサイクルの故郷である。

その前庭に、YA-1は美しさを湛えて佇んでいた。後に学生の一人は「完全な姿のYA-1がそこにあった」と興奮気味に振り返っている。彼らのデザインに一切の修正や変更はなく、あの夜、宿舎の床に用紙を広げて画いた原寸のスケッチがそのまま立体となって彼らを待っていた。細部の仕上げも美しい。彼らの情熱の一筆をかたちにするため、製造の現場でどれだけの手が試行錯誤を重ねたことだろう。

マルーンに塗られたフロントフェンダー。その上には、真鍮製のオーナメントが誇らしげに光っていた。

第3回富士登山レース(1955)

「YA-1」の性能や品質を証明する場として選んだのは、当時国内最大規模で開かれていた二輪車レース「富士登山レース」だった。静岡県富士宮市の浅間神社をスタートし、表登山道を富士山2合目まで駆け上がるタイムトライアル方式のこのレースに、ヤマハは全国の販売店から選出した10名のライダーを擁してウルトラライト級に出場した。それまで連覇を飾っていたホンダライダーが黒い革ツナギを着込んでいたのに対し、ヤマハライダーは木綿の白ツナギだったため、集まった観客には「素人っぽい」と囁かれたという。しかし、本社や全国の代理店から大挙押し寄せた大応援団の声援を受け、ヤマハは上位を独占。岡田輝男選手の優勝を筆頭に、10位までに6台の「YA-1」が入賞してセンセーショナルなデビューを果たした。

SPECIAL OFFER

伝統と革新が息づく組織文化を愛し、確かな技術を伝承し続けているヤマハ発動機の製造・生産現場。
その匠たちが、1954年8月22日に引かれた図面とヤマハ発動機の企業ミュージアムに収蔵されているパーツを元に復刻します。

真鍮鋳造トライアル
(ヤマハ発動機磐田南工場/2021年11月)

YA-1チューニングフォークオーナメント

受注期間:
2021年12月1日~2022年1月31日

先着123個限定価格(YA-1の排気量にちなみ)
15,400円(税込)

※以降は22,000円(税込)

[サイズ]
96㎜ x 36mm x 12mm(ねじ部を除く)
[材 質]
真鍮
[生 産]
ヤマハ発動機クラフトマンによるハンドメイド・日本製
[月 産]
50個
[お届け]
3月以降完成次第、オーダー順に送付
*生産の都合により発送が遅れる場合がございます。
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