
YA-1史譚 【第2話】
七人のサムライ
~苛烈なる試作設計室の180日~
おそらく何か大切な用事でも頼まれたのだろう。ある日、固く閉ざされた試作設計室の扉をノックした若者がいる。「失礼します」と頭を下げた彼には一瞥もくれず、背中を丸めて小さな部品を描き写し続ける技術者たちのその様子を、若者は「熱烈なる真剣さ。胸を打たれた」と短い言葉で書き残している。
「YA-1」の開発・設計は、ごく限られた人数によって秘密裏に進められた。エンジン設計3人、車体設計3人、そして電装設計1人。のちに「七人のサムライ」と呼ばれるようになる彼らの仕事ぶりは、じつに苛烈だったという。
手本とするDKW社の「RT125」を自らの手でバラし、一つひとつの部品を丹念に測定し、描き写す。その都度、測定治具も自作せねばならず、フレーム内部の構造に疑問を持てばエックス線装置を持つ遠方の大学まで足を運んだ。製図板と向き合う設計者らしい姿が見られたのは、彼らが担った膨大な仕事量の中ではほんのわずかだったことだろう。
「YA-1」の開発にあたって、川上源一社長は「RT125」の100%コピーを厳命している。これには二つの理由があった。一つは、世界に知られた名車を忠実に複製することで得られる知見や技術への期待。そしてもう一つは、この名車の完全なる再現が実現すれば、最後発のメーカーながら国内では群を抜いた存在としてデビューできるだろうという算用だった。
とは言え、設計者たちはオリジナルを超えていこうという気構えも見せている。その代表的な発露が、坂の多い日本の環境に適した3段変速から4段変速への仕様変更であり、扱いやすさを目的としたプライマリーキック方式の採用だった。さらに変速ペダルとキックペダルを同軸化した新機構を独自に完成させるなど、随所にチャレンジの爪痕を残している。
日本楽器製造(現・ヤマハ株式会社)の工具工場に設けられた試作設計室で、エンジン設計の準備が整ったのは1954年3月。3か月遅れて車体設計もスタートした。以降、恐るべき集中力を発揮した「七人のサムライ」は、当初計画ぎりぎりの8月31日に第1号試作車の完成に漕ぎつけている。彼らが自らの手で組み上げた試作車は、その後、一周65キロの浜名湖を周回する10,000キロ耐久テストを耐え抜いた。
それからちょうど一年後、彼らは標高3,026メートルの乗鞍岳に川上社長とともに立っていた。すでに「YA-1」は発売され、日本楽器からオートバイ部門を分離・独立するかたちでヤマハ発動機が創立している。この日は川上社長自らの走行テストに随行し、全員が「YA-1」にまたがって切り立つ谷や鋭い溶岩に神経をすり減らしながら山頂まで登った。
彼らは、すべての図面を描き終えた後も息をつくことができなかった。「YA-1」を生産するための治工具の設計や、工場での組立指導までを手分けしながら担当していたからだ。「過酷な山岳路テスト」と語り継がれる乗鞍岳テストだが、その記録の片隅に「信州そばは、格別だった」という無邪気な記述がある。乗鞍岳テストには「七人のサムライ」に対する川上社長からの労いの意味が含まれていたのではないか、そう推察する者もいる。

「YA-1」の生産拠点として、1955年1月、日本楽器浜名工場が稼働を開始した。建物は古い倉庫を改装したものだったが、アルミ部品を扱う職場にはフローリングの床が敷き詰められるなど、規模は小さいながらも近代的な工場が指向された。「工場は座敷と思え」という川上社長の言葉により、社員たちは工場の入口に設けられた下駄箱で会社支給の草履に履き替えて業務にあたることになった。建物は白いペンキで塗られ、そのまわりには芝生が敷き詰められた。従業員約150人。月産の目標200台。同年7月1日にはヤマハ発動機を設立し、この地に本社を置いた。



伝統と革新が息づく組織文化を愛し、確かな技術を伝承し続けているヤマハ発動機の製造・生産現場。
その匠たちが、1954年8月22日に引かれた図面とヤマハ発動機の企業ミュージアムに収蔵されているパーツを元に復刻します。


(ヤマハ発動機磐田南工場/2021年11月)

YA-1チューニングフォークオーナメント
受注期間:
2021年12月1日~2022年1月31日
先着123個限定価格(YA-1の排気量にちなみ)
15,400円(税込)
※以降は22,000円(税込)
- [サイズ]
- 96㎜ x 36mm x 12mm(ねじ部を除く)
- [材 質]
- 真鍮
- [生 産]
- ヤマハ発動機クラフトマンによるハンドメイド・日本製
- [月 産]
- 50個
- [お届け]
- 3月以降完成次第、オーダー順に送付
*生産の都合により発送が遅れる場合がございます。