第4節 もうひとつの記号“テネレ”

新たな4stビッグオフロードマシンの登場新たな4stビッグオフロードマシンの登場

XT500

「DT-1」でトレールという新しいカテゴリーを開拓し、モノクロスサスペンションでモトクロスでの確固たる地位を築いたヤマハは、ビッグオフロードマーケットとなったアメリカで更なるエポックメイキングとなる4ストビッグシングルモデルの開発を進めていった。西海岸の広大な荒野や砂漠での走行を楽しむオフロードマニア達の要望にこたえたエンデューロマシン「TT500」(1975年発売)と、デュアルパーパスモデルの「XT500」(1976年)である。耐久性に優れ強力なトルクを生み出すエンジンと、その強烈な振動にも耐える軽量な車体を持ったそれらのマシンは、荒野を豪快に走るウィークエンドのプレイバイクとして米国で瞬く間に大ヒット。さらに各種エンデューロレースでも連戦連勝の活躍を見せていった。

一方、欧州で「XT500」は米国とは違った展開で予想を超えるヒットとなっていく。そのスタイリッシュなデザインがストリートで存在感を増していったのだ。トルクフルなエンジンと、軽量スリムな車体の組み合わせが、普段使いからツーリングまでこなすオールラウンドモデルとして受け入れられたのである。しかし、それだけではなかった。後に社内でミスターヤマハと呼ばれることになる、ひとりの情熱的なフランス人によって「XT500」は全く新たなカテゴリー開拓の先鋒としての役割を果たしていくことになる。

常にパリダカに情熱を燃やしていたオリビエ

その男の名前はジャン・クロード・オリビエ。当時のフランスのヤマハインポーター・ソノート社に勤務し、後にヤマハ・モーター・フランスの社長となる人物だ。

彼が目指した新たなカテゴリー開拓とは、”アドベンチャー”カテゴリーであった。

「モーターサイクルで冒険に出るときがきた」。500ccのビッグシングルを眺める彼の瞳には、未知なるアフリカ大陸が重なっていた。彼はまず、1977年、アフリカ、コートジボワールの首都アビジャンから南フランスのニースまでの約10,000km を走るというアビジャン・ニースレースに参戦し、アドベンチャーラリーの難しさと楽しさを、身をもって体験。(この大会には、後にパリダカを主催するティエリー・サビーヌも参加)そして1979年に開催されたオアシスラリー(第1回パリ・ダカールラリー、以下「パリダカ」)では、「ソノートヤマハチーム」から自身を含め4人が「XT500」で参戦する。他の二輪・四輪メーカーは当時ほとんど関心を示さなかったが、オリビエの気持ちは違った。それは「XT500」というモデルのコンセプトにもとづく自然な選択だった」という。

第1回パリダカを走るC・ヌブーとXT500

この第1回は、二輪四輪の区分はなく総合結果で争われたが、「XT500」はレンジローバーやルノーなど四輪勢力を尻目にシリル・ヌブーとジル・コメがワンツー。翌第2回大会でもヌブーをトップに上位4台を「XT500」が独占する。なおこの年、二輪で完走した25台のうち「XT500」は最多の11台だった。

こうしてカリフォルニア生まれのスタイリッシュなデザインの「XT500」は、”アドベンチャー”を人々に奮起させる着火剤として、フランスを中心に欧州でも多くのファンの心を虜にしていった。

J・C・オリビエ率いるソノートヤマハチームとXT500(1979年)

アドベンチャー・カテゴリーの確立アドベンチャー・カテゴリーの確立

パリダカは翌1981年の第3回大会からFIA・FIM公認となり、二輪・四輪のファクトリー参加が相次いでいった。精力的だったのがBMW勢で、この大会で「XT500」は水平対向エンジンに後塵を拝することになる。ヤマハは翌1982年、「XT500」を発展させ、YDIS(ヤマハ・デュオ・インテークシステム)という独自機構を持つ「XT550」を発売したが、次第に高速化するパリダカでは苦戦が続いていった。

オリビエをはじめソノート社は、XTの更なる進化と走破性アップ、そして本格的ラリー参戦に対応した装備を持つ市販車両をヤマハ本社に要望した。フランス側の熱意と意向を汲み入れ、開発陣が出した答えが「XT600 Ténéré」だった。排気量は600cc。YDISは継承され、30Lのビッグタンク、ヤマハオフロード車初のフロントディスクブレーキ、ベルクランク型のモノクロスサスペンション、アルミ製リアアーム等を纏った。開発は、北米向けエンデューロ専用車「TT600」との並行進行で、高い信頼性が確保された。そして1982年秋のパリショーで初披露されると、それは世界中に新しいムーブメントを起こしていった。

発売以後、沢山のパリダカ出場ライダーがこのTénéréを選択していったのは当然だが、パリダカに象徴されるアドベンチャーに憧れる一般ライダー達の多くが、”夢”を体現するモデルとしてTénéréを選択。世界中にパリダカマシンのブームを引き起こしたのだ。当時を知る現ヤマハ・モーター・フランス社長のエリック・デ・セインはこう語る。 

「これはマーケットにとってはビッグサクセスだった。多くのファンを増やしていったからだ」と。

XT600 Ténéré

「XT600 Ténéré」は10年にわたり欧州で61,000台を販売。フランスだけでも20,000台を超えた。その後Ténéréは、1991年に5バルブ660ccエンジン搭載の「XTZ660 Ténéré」へと進化し、1994年にはデュアルヘッドライトを搭載。ライダー達の”夢”と重なりながら、” Ténéré”はいつしか、ヤマハのアドベンチャー精神を語る代名詞となっていった。

「XT500」から始まったアドベンチャー・カテゴリーは、このTénéréの発売によって、大きな花へと成長していったのだ。

勝利への執念勝利への執念

XT600 Ténéré

アドベンチャーという新たなカテゴリーを確立し、多くのライダーのパリダカへの参戦を可能にしたヤマハだったが、パリダカのレースでの優勝からは、第3回以降遠ざかっていた。

オリビエのパリダカへの勝利の執念は、ヤマハ本社の市販車開発グループを動かしていく。1985年パリダカ用の「XT600 Ténéré」は市販車と同じ呼称であるが、本社市販車開発部門が作成したパリダカ用マシン1号だ。タンクはメインと左右両サイドの3箇所にある計51L。ソノート社で調整され、これを駆るオリビエは堂々の2位を獲得。そして4位までを「XT600 Ténéré」が占めるという好成績を残した。しかし、年々高速化するパリダカでのトップの座は、ライバルの水平対向ツインに奪われる。

するとオリビエは翌1986年、最高速アップを狙って「FZ750」の4気筒を搭載した「FZ750 Ténéré」を製作、重量的なハンデもあり12位完走が精いっぱいだったが、そうしたオリビエの勝利への執念がヤマハ本社レース開発部門を動かしていった。

1986年オリビエの駆ったFZ750Ténéré

翌1987年。来る1988年に向けて、とうとうヤマハ本社レース開発部門がファクトリーマシン開発を始動。それが「0W93」と呼ぶ750cc水冷単気筒5バルブエンジンの「YZE750 Ténéré」だ。

そして、オリビエはフランスエンデューロ選手権のチャンピオン、当時22歳のペテランセルをファクトリーチームに迎え入れる。「1987年です。憧れていたオリビエさんから電話があり、パリダカを一緒に走ってみないか?という誘いを受けました。ずっとパリダカを夢見ていた僕は是非走ります!と即答しました。」

FZ750Ténéré 1988年、水冷シングル・5バルブ・ツインプラグのYZE750 Ténéré(0W93)で2位となったF・ピコ

ペテランセルも参加した事前テストで煮詰められた「0W93」は、ソノートチーム、ベルガルダチーム、スペインチームのために計8台が用意され、1988年のパリダカに出場。しかし、ペテランセルはコースミスで18位に終わってしまう。一方、オリビエはゴール前の1週間、転倒して手を骨折しながらもそのまま走りきって7位でゴール。この驚異的なオリビエの精神力についてペテランセルはこう語った。「あの年、私は大きなミスで後退したのですが、オリビエのキャパシティ、ネバーギブアップ精神、エネルギーに圧倒されました。それはまた私自身のパリダカに対するモチベ―ションに繋がり、パリダカに続けて挑戦する原動力になりました」

この1988年は「0W93」を駆るベルガルダチームのフランコ・ピコが活躍。終盤までホンダNXR750のエディ・オリオリとデッドヒートを展開するも、惜しくも2位でゴール。また翌1989年は、進化型の「0W94」を投入、この年もピコが力走するも54分差で2位となる。結局ホンダファクトリーのパリダカ優勝を食い止めることはできなかったが、ピコが駆った「0W93」Ténéré のノウハウは、次代の市販”Ténéré”へと受け継がれることになる。

FZ750Ténéré 1988年、水冷シングル・5バルブ・ツインプラグのYZE750 Ténéré(0W93)で2位となったF・ピコ

市販車両Super Ténéré 開発市販車両Super Ténéré 開発

ヤマハ初のパリダカ用ファクトリーマシン「0W93」がパリに届いた頃、本社市販車開発グループでは、次代のTénéré、「XTZ750Super Ténéré」開発が開始された。1987年12月であった。「Ténéréには夢とロマンの歴史がある。アドベンチャー・カテゴリーは常にヤマハがリードすべき」という使命感に開発者たちは燃えていた。”パリダカ出場を夢見る人へ、アドベンチャーモーターサイクルを提供する”というのがコンセプトだった。必須条件は4点に絞られた。1)長時間走っても快適であること、2)ハイパワー&ハイスピードで走れること、3)サバンナ、林道を安心して走れること、4)市街地走行の機能も備えること、だった。ただこの要件には背反する要素もある。そこでチームは、モデル像をこうキーワード化した。

1)サバンナで他車を圧倒的に凌駕する! 2)連続2時間以上、快適に150km/hで巡航できること

まず、ディメンションが決まった。1988年のパリダカで2位となったピコが駆った「0W93」でのノウハウが反映された。とりわけ1,515mmの軸間距離設定は、大排気量アドベンチャーの操縦安定性にとって重要な意味を持った。フレームは高速性を配慮したダブルクレードル型だった。

新しいエンジンは、従来のシングルTénéréがもっていたフィーリングを満足させ、さらにハイパワー、ハイスピードに対応するため360°クランクの2気筒750cc・5バルブと決まった。ダウンドラフト吸気で、ギア駆動2軸バランサーを内蔵、ドライサンプ潤滑である。テストにはTénéréワールドを育ててきたオリビエがもちろん加わった。そして1988年秋のパリショーで、ついに「XTZ750 Super Ténéré」がデビューする。

XTZ750 Super Ténéré

Super Ténéréでのファクトリー参戦Super Ténéréでのファクトリー参戦

YZE750T Super Ténéré 1991年のパリダカを制したYZE750T Super Ténéré

新しく誕生した市販車両「XTZ750 Super Ténéré」をベースに、パリダカへのファクトリー参戦は加速していった。1990年802.5ccのファクトリーマシン、「YZE750T Super Ténéré」が登場し、カルロス・マスが2位を獲得すると、1991年には発展型が投入され、ソノートチームとイタリアチームあわせて8選手が出走した。そしてついにその年「YZE 750T Super Ténéré」が1~3位を独占し、ヤマハが10年ぶりにパリダカを制覇。オリビエとヤマハ開発陣の勝利への執念が実った瞬間だった。

「僕はTénéréに乗って、パリダカで6度優勝できたのですが、初優勝できた1991年が一番のビッグエモーションでした。私たちのチームにとって父親のような存在だったオリビエと表彰台に登ることが出来て最高だった。彼の長年の目標を達成できたから」とペテランセルは振り返る。

1994年パリダカは、市販モデルだけでの出場に限定され、ヤマハファクトリーは参戦を休止したが、それでもオリビエのパリダカへの想いは変わらなかった。パリダカ参戦を希望するプライベイトライダーに向けて、ヤマハ・モーター・フランスは、パリダカ用に市販モデルを製作販売。2気筒の「XTZ850R」と単気筒「XT660R」をそれぞれ15台、合計30台を販売したのだ。「XTZ850R」は当時約14万フラン(約300万円)。パリダカ参戦を目指すプライベーターの夢を支え続けたのだ。

1995年4度目の優勝を飾ったペテランセル

翌1995年、ペテランセルがこの「XTZ850R」ベースのファクトリー体制でパリダカに復活すると4度目の優勝を飾る。続く1996年はエディ・オリオリが優勝、1997年と1998年は、砂漠でのトラクションに優れた270度クランクの「XTZ850TRX」を駆りペテランセルが連覇。こうして彼はパリダカの二輪部門で6勝という前人未到の記録を打ち立てる。そしてヤマハは1998年までのパリダカ19戦の中で9勝とメーカー最多勝利を記録し、ファクトリーとしてのパリダカ参戦にピリオドを打った。

パリダカへの挑戦でヤマハが得た知見と技術は、その後「XTZ660 Ténéré」や「XTZ1200 Super Ténéré」といったTénéréブランドに継承されていく。しかしそれだけでなく、ロードスポーツモデルや、新ジャンル開拓にも活かされていった。

1998年、XTZ850TRXで通算6度目の優勝を飾ったペテランセル

Ténéréとは、トゥアレグ語で「何もないところ」の意。その何もない「砂漠のなかの砂漠」に、ヤマハは情熱的な冒険者たちとともに、オフロード開拓者としてチャレンジした。ジャン・クロード・オリビエは間違いなくそのシンボルであり、求心力であり、牽引者であった。そして彼の功績と不屈のチャレンジ精神は、その後ヤマハ・モーター・フランスはもちろんのこと、世界中のヤマハ社員の指標となっていった。

ジャン・クロード・オリビエとパリダカール
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市販モデル「Ténéré」の系譜
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市販モデル「Ténéré」の系譜 市販モデル「Ténéré」の系譜

参考動画参考動画

オリビエとの出会いとテネレの存在

パリダカールラリー2輪部門で前人未踏の6勝を上げたペテランセルが、ヤマハモーターフランスのオリビエとTenereについて語ります。

ヤマハモーターフランスとオリビエのパリダカ挑戦

ヤマハモーターヨーロッパのマネージャー、エリックが、ヤマハモーターフランスとオリビエのパリダカ挑戦について語ります。