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ヤマハレーシングライダーOB会

2009年11月に企画展にあわせて開催

ヤマハレーシングライダーOB会

ヤマハレース史を彩ったライダーOBたちの夢の跡

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「こういう色って最初からあった?」などなど、トヨタ2000GTの開発にも携わった松島弘規さん(中央)を質問攻め

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あらためてヤマハ発動機創立当初に思いを馳せ、感慨深げに語り合う長谷川弘さん(左)と宇野順一郎さん

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スノーモビルや自転車、レーシングカート。「こんなものも作ってたよね」「俺はあの時ね……」と、いろいろな製品に思い出が尽きない

 コミュニケーションプラザでは、2009年3月から'10年1月上旬まで、ヤマハモーターサイクルレースの足跡をひもとく企画展「頂点をめざして」(前期・後期・総集編)を開催していますが、'09年11月上旬、それぞれの時代を支えた「ヤマハレーシングライダーOB会」のみなさんが来場。企画展や常設展示を見学し、思い出話に花を咲かせながら、お互いの親交を深めていました。

 「ヤマハがレース活動を始めて50年以上が経ったけれど、これまで世代やレースカテゴリーの壁を超えてレース仲間が顔を合わせる機会がなかった。その草創期を知っている先輩や私たちが元気でいるうちに、ぜひ実現したいと思っていたんです。そんな時、コミュニケーションプラザでヤマハのレース史を紹介する企画展をやっていると聞いたので、ちょうどいいチャンスだと、みなさんに声をかけたわけです」と話すのは、この集まりを企画した本橋明泰さん。'60年代、フィル・リードやビル・アイビーのチームメイトとしてロードレース世界GPを戦い、'67年マン島TT・125ccクラスで3位表彰台を獲得。その後は全日本選手権で長く活躍し、金谷秀夫さんや故・高井幾次郎さんなど多くの後輩に影響を与えたライダーです。
 さらに幹事役として、'80年代の全日本ロードレースや世界GP、鈴鹿8時間耐久で華々しい戦績を残した平忠彦さんも協力。残念ながら都合が合わず欠席された方が数名いらっしゃいましたが、この日、本橋さんと平さんを含む13名の方たちが集まりました。
 簡単にご紹介すると、まずヤマハ発動機草創期、富士登山レースや浅間火山レースの時代を知る坂田啓一さん、奥山克三さん。故・伊藤史朗さんとともにロードレース世界GP進出を果たした砂子義一さん。本橋さんと同じ時代に国内レースで活躍した宇野順一郎さん、松島弘規さん。1966年の日本GP250ccクラスでフィル・リードを抑えて優勝した長谷川弘さん。全日本500ccクラスで平さんに続く3連覇を果たした藤原儀彦さん。全日本スーパーバイククラスを2度制した4ストロークマシンのスペシャリスト吉川和多留さん。モトクロスライダーでは、'60年代後半から'70年代序盤、豪快無比のライディングでヤマハチームに数々の栄光をもたらした鈴木忠男さん。その豪快な走りを受け継いで全日本モトクロスを席捲し、ヤマハ黄金期を築いた鈴木秀明さん。兄・秀明さんも舌を巻く天才的なライディングでヤマハのエースとして君臨し、ヨーロッパでも活躍した鈴木都良夫さん。実にそうそうたる顔ぶれです。


勝ったことより負けた悔しさが勝利の糧になり思い出に残る

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ロードレースの大先輩、長谷川弘さんを前に、ちょっと緊張気味の藤原儀彦さん(中央)と吉川和多留さん


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兄弟ながら「当時は口も利かないライバルどうし」だった鈴木秀明さん(右)と都良夫さん(左)の「憧れのスターライダー」が、先輩・鈴木忠男さん

 見学の途中、みなさんが真っ先に注目を集めたのは、エントランスの「トヨタ2000GT」。ライダー活動を止めたあと、その開発に携わった松島さんを中心に輪ができ、笑顔が弾けていました。また2階の歴史展示コーナーでは、ヤマハ創立当時の様子を物語るYA-1やトロフィーの前で鈴木秀明さんがじっと腕組み。「今の俺たちがあるのは、こういう先輩たちのおかげだな」と真剣な表情でつぶやく姿が印象的でした。
 そして企画展ブース。三々五々、当時を懐かしむように思い出深いマシンを探し、レース年表をたどりながら歩く何人かの方に、ちょっと話を聞いてみました。
 宇野さん「僕はね、ヤマハチームで走った最初のレースが、'62年の第5回全日本クラブマンレース。だから、やっぱりTD-1に愛着があるねえ。デビューから3~4年付き合ったバイクだもん。でも、一番鮮烈に覚えている場面は、その前。浅間の第1回クラブマンレースで練習走行していた時、この人(長谷川さん)にビュンって抜かれたんだ。しかも手を挙げて会釈しながら(笑)。もう腹が立つより、すごいなあ、速いなあって感心しちゃったよ」
 平さん「僕の思い出のレースは、みんな'90年の鈴鹿8耐(優勝)だろうって言うんだけど、強いてひとつ挙げるなら、世界GP250にフル参戦した'86年の第2戦・イタリアですね。開幕戦で左足をひどくケガしてしまい、シーズンをあきらめて帰国するか続けるか、ギリギリまで悩んで出場を決断した。結果は予選10位/決勝22位だったけれど、あれがなければ最終戦・ミサノでの優勝もなかったし、その後の自分もなかったと思う。ゼッケン31のYZR250、懐かしいですね」
 吉川さん「思い出はいろいろありますが、最初で最後のグランプリ、2002年のパシフィックGP(もてぎ)はくやしいというか(笑)残念なレースでした。当時、僕は全日本スーパーバイクに参戦しながらYZR-M1の開発もやっていたので、ぜひ走らせてほしいとお願いしたら、OKが出たんです。ところが、マシンは先行開発段階の仕様で、まだ十分な戦闘力がなかった。結果は12位完走でしたけど、実戦仕様のマシンだったら表彰台くらい狙える自信があったんですけどねえ(笑)」
 などなどおもしろい話が山盛りで、どなたの話からもヤマハに対する愛着とヤマハライダーであったことの誇り、勝つことに一途でファミリーのように固く結ばれた当時のチームやスタッフを懐かしむ様子が窺えました。ヤマハのレース活動は、今もこうした人と人のつながり、絆によって支えられており、その関係を失わない限り、これからも数多くの勝利を積み重ねていくことでしょう。


2009年11月掲載

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