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YD-1 開発者インタビュー

展示コレクションの関連情報

すべてをやり尽くした達成感と満足感
技術者として本当に幸せだったと思う

PROFILE

安川 力氏(やすかわ・ちから)
YD-1の車体設計担当

 YD-1の設計試作がスタートした1956年(昭和31年)当時、まだ日本のオートバイ産業は本当の意味で自立した状態ではありませんでした。ヨーロッパで高い評価を受けるモデルの実車を採寸して、それをもとに図面を起こし、タンクやフェンダーなど外観上のポイントとなる部分だけに手を加える程度の製品しか作っていなかったからです。
 YD-1も企画の段階では、アドラー社(独)のMB250をお手本としようということが概ね決まっていました。しかし、設計者にしてもデザイナーにしても、「自分たちの手によって、自分たちの考えた新しいオートバイを作りたい」という強い気持ちを抑えきれず、意を決して川上源一社長(当時)に「オリジナルのオートバイを作らせて欲しい」と直訴したのです。

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 当時のオートバイは、エンジン出力のわりに車体が大きいモデルが多くて、使用実態も荷物運搬などの実用的な用件が大半を占めていました。ただ、オートバイの未来像、あるべき方向を考えると、「もっと軽快でパワフル、もっとスポーティであるべきだ」という意見に行き着いたわけです。
 川上社長が私たちの技術、それから可能性をどの程度信用してくれたのかわかりませんが、少なくとも情熱は汲み取ってくださったのでしょう。「だったらやってみろ」と許可をいただきました。それはもちろん、飛び上がるほど嬉しいことでしたが、逆に精神的なプレッシャーにもなりました。「技術者としての無理を聞いてもらった。だからこそ、いい加減な仕事はできないぞ」とね。プロジェクトそのものは、車体設計、エンジン設計、そしてデザインのスタッフを合わせて6名という小さな規模だったのですが、みんな一様に「責任のある仕事を任された」という気力が漲っていました。
 毎晩遅くまで働き、時には仕事場に寝泊りすることさえありましたが、当時のことを振り返って「苦労した」という印象はありません。初めてのことばかりで何をやるにも試行錯誤の連続でしたが、このような機会を若いうちに与えられたのは、技術者として本当に幸せだったと思います。
 デザインを担当したGKデザインの岩崎信治さんとは、本当に、寝ている時以外いつも顔を突き合わせていた印象があります。車体設計の立場、そしてデザイナーの立場から意見を出し合い、来る日も来る日も激論を交わしました。そして「本当のデザインとは、まず機能があり、その必然性から生まれたものでなくてはならない」という基本的な理解のもと、ヤマハのフルオリジナルYD-1の姿を具現化していったのです。
 完成した時の、すべてをやり尽くしたという達成感や満足感は格別なものでした。
 そして、デビューしたYD-1は、オートバイという乗り物が実用車からスポーツ車へ転換を図る大きな分岐点となり、たくさんの二輪雑誌の人たちから「ヤマハの持てる技術をすべて注ぎ込んだオリジナルの傑作車」と絶賛されたことも、我々にとって大変嬉しいできごとでした。

※このページのプロフィール、および記事内容は、2003年4月の取材によるものです。
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