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コラムvol.13

ヤマハのレース活動50年の歴史をコラムでご覧いただけます。Vol.13「命運を託した英雄、ヤマハへ」

vol.13 1973/RR/Yamaha Factory Team 命運を託した英雄、ヤマハへ

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ジャコモ・アゴスチーニの獲得は、世界GPのタイトルを奪う決意表明だけでなく、オイルショックに立ち向かうヤマハの姿勢を明確にすることで、不安を抱えた社員やディーラー、販売店、ユーザーまでも勇気づけた

「当社では、ロードレース界の雄、ジャコモ・アゴスチーニ選手との間で契約に関する交渉を進めてまいりましたが、この程契約が成立致しましたのでお知らせいたします」
 1973年12月6日、1枚のプレスリリースが世界中のレース関係者を驚かせた。1966年から1972年まで7年連続世界GP500チャンピオン、1968年から6年連続で世界GP350タイトルを保持するイタリアの英雄が、ついにMVアグスタを離れ、日本のヤマハに移籍する。ロードレースの勢力図を描き換える大ニュースである。

 しかしその頃、世界の産業、経済は重大な危機に直面していた。第一次オイルショック。特に石油を100%近く輸入に頼る日本では、石油の減産と供給制限が社会全体にパニック的な連鎖反応を引き起こしていた。
 それだけに、この日東京(帝国ホテル)で行なったアゴスチーニ獲得の記者発表会には多数の報道関係者が詰めかけ、ヤマハ発動機という日本の二輪メーカー、一企業としての姿勢に強い関心が寄せられた。
 その席上、説明に立った重役は次のように述べている。
「諸般の情勢は確かに厳しいが、健全なモータースポーツの世界を広げるヤマハとして、これまで世界の多くの人々の期待と支持を得てきた姿勢をすぐに翻すことはできません。またレースには、その勝敗とは別に、技術成果を迅速に高めるという大きな収穫もあります。より優れた製品を創り出すことで社会に奉仕するのは私たちメーカーの務めであり、そのための技術探求の姿勢はいついかなる状況にあろうと持ち続けたいと思います。アゴスチーニ選手の獲得は、この2つの基本姿勢を貫こうとする意志の表われなのです」
 もっと具体的に例を挙げて言えば、こういうことになる。
 ヤマハはこの年、5年ぶりにファクトリーチームを編成して世界GP500に初挑戦。はからずもサーリネンの不幸なアクシデントによって中断したが、開幕2連勝を飾るなどチャンピオン獲得に向けて十分な実力を示した。また、世界GPのファクトリーマシンYZR500と同時開発したTZ750も完成間近かで、1974年にはアメリカのデイトナ200マイルでデビューさせると同時に、200台を市販する予定になっていた。
 この2つのプロジェクトを中途半端な形で終わらせては、熱心なレースファンの期待を裏切ることになり、YZR500とTZ750開発に費やした資金や労力もすべて無駄になる。そこでヤマハは、引くよりも攻めの姿勢を貫き、勝利に全力を傾ける道を選んだ。アゴスチーニの獲得は、その勝利を確実にするための切り札なのだ。
 ふだん陽気な笑顔が魅力のアゴスチーニも、この時ばかりは緊張を隠さず、
「ヤマハは高度な技術で私の栄光をさらに高め、私はヤマハのために勝つ。厳しい責任をお互いに感じあっているんだ。これは非常に大切なことだよ」と慎重にコメントした。
 そして翌年3月10日、ヤマハでのデビュー戦、デイトナ200マイルに挑んだアゴスチーニとヤマハは、80台のビッグマシンで争われる過酷な長距離レースをスタートからみごとにコントロール。36周目、最後の給油を終えると、同じTZ750に乗る2位ケニー・ロバーツ、4位ドン・カストロ、5位チューボ・ランシボリを従え、颯爽とフィニッシュラインを駆け抜けた。

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