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コラムvol.09

ヤマハのレース活動50年の歴史をコラムでご覧いただけます。Vol.9「パワーだけに依存しない、ヤマハのレース哲学」

vol.09 1967/RR/Technology パワーだけに依存しない、ヤマハのレース哲学

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いかに高性能なマシンを作っても、操るのは人間。ライダーが乗りこなせなくては意味がない。人と機械の融合こそ、ヤマハのモノづくりの原点である

 次々に日本の二輪メーカーが世界GPに挑んだ1960年代、レーシングマシンの性能も飛躍的に向上したが、開発競争のトレンドは「もっとパワーを!」であった。
 ヤマハが初めて世界GPに挑戦した1961年当時の250ccマシンRD48は、2ストローク・空冷・並列2気筒エンジンを搭載し、最高出力35PSを発揮した。だが、これでは世界のライバルに太刀打ちできない。そこで2年後、最高出力45PSのRD56を投入したヤマハは、ようやく互角の勝負を展開。その後さらに48PS、55PSへとパワーアップすることでライバルチームを圧倒し、2年連続チャンピオンを獲得したのだ。
 しかし、そのまま立ち止まることは許されない。やがて驚異的なパワーを発揮しはじめたホンダの6気筒マシンに対し、ヤマハも70PSを超える水冷・V4のRD05、05Aを投入し、しのぎを削った。

 排気量以外マシンに制限のない時代。より大きなパワーを出すためには、もっと回転を上げればいい。それには小さくて軽いピストンが必要だ。それなら単気筒より2気筒、2気筒より4気筒が有利に決まっている……。こうして次第に多気筒化が加速し、50ccで3気筒、125ccは5気筒、250ccでは8気筒を開発していたメーカーもあったという。
 だが同時に、多気筒・高回転化すればするほどパワーバンドが狭くなる。それを補うためにミッション段数も増えていき、50ccで14速、125ccでも12速が当然と考えられていた。
 1966年に開発が始まったRA97の後継モデル、RA31も例外ではない。RD05を125ccにサイズダウンしたV4エンジンは、11段ミッションとの組み合わせで、39PS/16,000rpmのパワーを絞り出す計算だった。
 しかし性能テストを担当したエンジニアは、ライダーたちの「走ってる途中で、いま何速なのかさっぱりわからなくなった」という話を聞き、大きな疑問を抱く。
「このエンジン特性から見て、ギアは何速必要なのか?」「エンジン性能を考えなければ、ライダーにとって何速が最適なのか?」
 そこでエンジニアたちは、理論派ライダー・本橋明泰とともに最新計測装置テレメーターを備えた谷田部テストコースへ出かけ、疑問の解答を探った。
 その結果、1回のギアチェンジで瞬間的にタイヤが駆動力を失う時間は、およそ0.2秒だとわかった。世界GPでは多くのライダーが1周0.1~0.2秒ほどの差で競い合う。まして、1周のうちに数十回ものギアチェンジを繰り返すのだから、間違いなくギアチェンジ回数は少ないほうが有利である。
「少しくらい最高出力を犠牲にしたとしても、ギアチェンジを減らせるようパワーバンドの広いエンジンを作るべきだ」。そう結論付けたヤマハ技術陣は、RA31を9速ミッション、44PS/16,800rpmに進化させ、翌1967年、12戦10勝を挙げてチャンピオンに輝いた。
 この時の教訓を、当時のエンジニアは次のように語っている。
「最後の9速目は、長い下りのストレートで使うオーバードライブなので、実質8速なんです。つまり12速対8速。この違いがわかりますか? ライダーは毎周、0.1秒の誤差もないほど集中して走っている。レースでは、この状態が45分も続くんです。いつミスしても不思議ではない緊張感の中で、ギア操作1つでも減らすことができればそれだけ安全性が高まり、勝つ可能性も高まる。人に優しいマシン作りの大切さを、我々はこの時初めて学んだような気がします」

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