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コラムvol.04

ヤマハのレース活動50年の歴史をコラムでご覧いただけます。Vol.4「無我夢中、手探りで戦い抜いた初めての世界GP」

vol.04 1961/RR/World Grand Prix 無我夢中、手探りで戦い抜いた初めての世界GP

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1961世界GP初挑戦を果たしたヤマハファクトリーライダー。左から伊藤史朗、大石秀夫、野口、長谷川弘、砂子義一

「いったい、どうなってるんだ!」。誰かがたまりかねたように叫ぶ。しかし、狭いホテルの部屋に集まった数人の男たちは、押し黙ったまま床や天井を見つめ、あるいは窓の外をあてどなく眺めやるしかなかった。
 ヤマハレーシングチームのメンバー5名が、第1陣として日本を発ったのは1961年5月11日。本来であれば、ここパリに到着したあと、別便で送った荷物を受け取り、出発の準備を整えたところで第2陣の8名と合流し、フランスGPの開催地クレルモンフェランへ向かう手はずだった。今ごろはマシンの組立ても終わり、練習走行の算段でも話し合っていたに違いない。

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1961年、初めてのマン島TTでRD48とともにスタートを待つ野口種晴。オランダGPでは8位に入った

 なにしろ今回の遠征は、ヤマハにとって初めての世界GP参戦である。チームがどんな状況に遭遇してもすべて現場で対応できるよう、スタッフは準備に万全を期した。マシンのスペアパーツや工具はもちろん、応急パーツを作る材料と治具、あるいはインスタントラーメンやお湯を沸かす電熱器、さまざまなケガや病気の常備薬など思いつく物すべてを木箱に詰め、その数は100個にも上がった。
 ところが、フランスの税関の手続きが複雑で、せっかく送った荷物を受けとることができない。チームマネージャーはなんとか早く通関できるよう、毎朝早くから出かけて交渉を続けていたが、ほかのスタッフやライダーたちはどうすることもできず、ただイライラと待ち続けるばかり。ようやくすべてがクリアになり、大慌てでパリを出発した時は、すでに第1陣の到着から1週間が過ぎていた。
 サーキット近くのホテルに到着すると、エンジニアやメカニックたちは地下ガレージに飛び込んだ。二昼夜で5人分のマシンを組み上げ、整備しなければならない。寝食も忘れて作業を続け、どうにか公式練習には間に合ったが、ゼッケンがない。伊藤史朗はナンバーをペンキで手書きし、野口種晴にいたっては白いプレートのまま出走したという。
 こうしてヤマハチームは、悪戯なグランプリの女神の洗礼にも挫けることなく、伊藤が250ccクラス8位、野口も125ccクラス8位でフィニッシュ。世界GPに挑戦する資格があることを証明して見せた。

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1961マン島TT開催当時のマウンテンコース

 ところが、一難去ってまた一難。次のマン島TTは、有名な1周60.7kmのマウンテンコースが舞台。攻略が難しいうえ、ヤマハライダーの誰もが初体験。そこで練習日以外にも走行できるよう、レーサーの車体に市販車のエンジンを積んだ特別車を持ち込んでいたが、連日ひどい霧が出てまったく見通しが利かない。ところが、馴れたヨーロッパのライダーたちはそんな状況さえ構わず、すさまじいスピードで吹っ飛んでいく。
 このままでは闘う前から勝負にならない。困り果てたヤマハチームの相談に応じ、快く助けてくれたのが、同じホテルに宿泊するMVアグスタチームのG・ホッキングだった。彼は自分のクルマにヤマハのライダーを乗せてコースを回り、ブレーキングポイントやフルスロットルのポイントまで詳細にアドバイスしてくれた。そのおかげで、伊藤が250ccクラス6位を獲得。ヤマハに初のチャンピオンシップポイントをもたらしたのである。
 だが、いつまでも喜びに浸ってはいられない。オランダGPに向けて移動するため飛行機をチャーターしようとしたチームマネージャーは、運ぶ荷物の量を計算して驚いた。13人のメンバーとパリに運び込んだ荷物100箱に、フランスやマン島で調達したパーツ、日本から追加で届いた荷物、さらにスタッフ全員を加えると3往復もしなければならない。大変な手間と出費である。

 しかし、ムダなものは何ひとつなかった。回転式ドラムにタイヤを押し当ててエンジンを始動させる手製のスターターは、押し掛けするスペースさえないパドックや宿舎の駐車場などでマシンを準備するのに大変役立った。現地調達したガーリング製サスペンションは、日本に持ち帰って貴重な研究材料となった。
 2年後、これらの経験を糧にして世界GPに戻ったヤマハは、わずか通算8戦目にして初優勝を遂げるのである。

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